綺麗な涙 −キレイナカンジョウ−
中篇:風よ、君が元へ疾れ
「4組の堀口は最近黒崎くんと仲がいい」
そのうわさが出たのは2学期末で、少女も直後に耳にしていた。
5年前に共学校になったばかりで男子生徒の絶対数の少ないこの学校で、彼は初の男子生徒会長になった。
そのせいで彼は急に学校中から注目を浴びるようになったのだ。
初等部中等部からの持ち上がりの生徒で構成される女子クラスの少女たちは、男女混合クラスのこの盛り上がりに対して「当たり前のこと」と冷静だった。
元々前身の女子高が進学校として名が通っていたため、男子の進学率も順調に増えていた。共学になって5年目の今年度の入学生を持って、混合クラスの男女比は6対4まで上がった。
男子生徒の数が増えれば、自然役職につく男子生徒の数も増えるのだ。そんな当たり前のことに何をそんなに騒いでいるだろう、と。
少女も同じように考えていた。何より、そんなことで彼の価値が変わるわけがない。
けれど彼の周囲の人間は、そうは考えなかったのだ。彼は容姿のよさもあいまって、数時間後には学校で最も有名で人気のある男子になっていたのだ。
けれど少女は彼のことを遠巻きに見ていることしかできない少女たちのことなど気にも留めていなかった。うわさに上った少女も高校入学組みで彼と同じ生徒会役員ではあったが、大多数の少女たちと同じように彼を取り巻く少女の一人だろうと考えていたのだ。
彼女の中で砂に埋もれるような存在だった少女が、急激に大きな存在になった。
「堀口……さん。生徒会の?」
「そう、その堀口が黒崎くんに一緒に来て欲しいって……」
少女は机の上に置いた小さな箱を見つめた。意地っ張りな身体は、まだ動こうとはしなかった。それでも、恐怖に震える唇は答えを欲した。
「それで、どうしたの……?」
「とりあえず、話を聞くって。今繭が黒崎くんの後を追ってるけど……」
この先どうなるか判らない。
ガタン……!!
少女は最後まで話を聞くことなく、紺色のスカートを蹴散らしながら走り出した。
手にはチョコレートの小さな包みを持って。
なぜ、彼は誘われてついて行ってしまったのだろう。
陽菜は生徒会の始まる前からこの後一緒に来て欲しいと頼んでいたらしい。繭が来たら3人で教室までいくつもりだったのだ、と。図書館と生徒会室は校舎とは独立した、資料館と呼ばれる木造の洋館に存在していた。この建物は母体である女子校の創立時に記念として外国の建築家が設計した建物で、この学校の歴史資料を保管していた。だが創立100周年記念の折に理事長が資料庫だけではもったいないと、手を加え図書館兼資料館兼生徒会室として生まれ変わった。
だから会議自体が長引かない限り待ち時間は殆どない。
だがその短時間の間に件の少女は彼を連れて行ってしまったのだという。しかも彼は戻れないかもしれないと、言い置いて行ってしまったという。
彼女は一体何をいって、彼を連れて行ってしまったのだろう。陽菜と先に約束していたのに。自分がぼんやりと待っている間に、彼の心は自分以外の誰かに興味を移してしまったのだろうか。
二年後期の選挙で彼が生徒会長に選ばれた時、彼の周囲はわきにわいた。女子クラス以外の学校中が、と言い換えてもいい。
その影響で彼の隣にいることの多い少女も、注目されるようになった。混合クラスの取り巻きの少女が教室まで見物に来たり、見ず知らずの少女に興味本位で話しかけられたり、やっかみ半分でからかわれた。果ては「女房気取り」と陰口をたたかれたりもした。
女子クラスと混合クラスの女子の仲がいいとは決していえなかったが、それだけではないことは明らかだろう。
少女にとって、彼とともにいることは自然なことだ。放課後に待ち合わせて帰ったり、お昼にお弁当を食べたり。それはこの春から始まったことで、無理に隠していたわけではなかったが親しい友達くらいしか知らないことだった。
多少他の少年たちより、もてたかも知れない。けれどその程度だ。
秋まで誰も彼に注目などしていなかったからだ。
そのくらい、彼は普通の存在だったのだ。
ただ彼が注目される前からそばにいただけだ。それだけで少女は取り巻き達から目の敵にされた。
彼と付き合っていることを判っていながら、彼女に交際を申し込む少年の数が増えたことも一つの原因だったかもしれない。
気がつけば、彼以上に注目される存在になっていた。
クラスの人間は、そんな状況に不快感を持つ少女のために色々と協力してくれた。彼女を呼び出そうとする取り巻き達を追い払ってくれたのも一度や二度ではなかった。
彼女は態度をそっけなくした。彼に対してもその周囲に対しても。
その行為がまた取り巻きの反感を買うと判っていてもやめなかった。彼も含め、自分はごく普通の存在なのだから。
注目され続けることは耐えられなかった。悪意を持った目で見られることも。
とにかく嫌だったのだ。自分とは関係ないことで煩わされるのが。
だから男子に声をかけられても視線をやりもしなかったし、取り巻きの声も無視した。彼と一緒にいてからかわれるのも嫌だったので、昼ごはんも下校も一緒にしなくなった。不仲を囁かれる程、殆ど学校では顔を合わせなくなった。
腹を立てていた。
自分がこんなに嫌な思いをしているのに、彼は何も変わらないのだ。少女を気遣う気配さえ見せない。
こんな状況下で彼の態度が変わらないのは本来なら喜ばしいことなのかもしれないが、それが少女には不満でならなかった。
彼自身は、もっと嫌な思いをしているはずなのだ。
嫌なのに嫌な顔をしない、苦痛なのに弱音ひとつ吐かない。いつもと変わらぬ冷静な表情。それは少女のことを気にかけないこと以上に、少女を傷つけていた。
自分がどれ程彼のことを気に掛けているか判っているのだろうか。「いうだけ無駄」「心配させたくない」などという言い訳は通用しないのだ。
彼の方から教室を訪れない限り、逢うつもりなどなかった。
けれど彼は、何もいっては来なかった。それが少女を不安にさせた。
少女は安心したかったのかも知れない。自分が彼から必要とされている存在であるということを。彼の傍らにいてもいいということを。自分が彼にとってどのような存在であるのか、それ自体に自信がもてなくなっていたのだ。
もし彼に拒否されたら? お前はもう必要ないといわれたら。
きっと彼女は耐えられなかっただろう。
しかし繭のいったことが確かなら、その気になれば彼には彼女の代わりがいくらでもいることになる。今日の彼女がそうであるように。
もし自分が彼のことを呼び出そうと思わなかったら、彼は誰かのチョコレートを受け取り、一緒に手を繋いで歩いていたのだろうか。
自分とともに歩いた道を。
「あ……、繭!」
陽菜に教えられてたどり着いたところは、図書館と生徒会室のある別棟だった。繭はその資料館の古ぼけた木製の扉の前に立っていた。取っ手には図書整理中という札がかけられているのが目に入った。図書館の利用を禁止するものだが、実質上一般の生徒がこの施設を利用できないことを示していた。
「智明……」
繭は困ったような驚いたような、変な顔をして少女を見つめたまま動こうとはしなかった。
「どうしたの?」
少女は繭がてっきり自分の到着を待って中に入るものだと思っていた。彼はこの中にいるはずだ。
そう思って繭にたずねるが彼女は首を振った。逆に少女に彼らと遭わなかったかとたずね返した。困惑の表情で。
「ついさっきここから出て行ったよ。智明会わなかった?」
繭は少女が入れ違っては困るとここで待っていてくれたのだ。ここへくる道すがら少女は彼どころか、誰にも会わなかったのだ。知るわけがない。
「それでどこに行ったの?」
「判らない。けど堀口が忘れ物っていってたから、教室か下駄箱……」
昇降口、それは下校を意味していた。少女はきつく唇を噛みしめた。やはり彼は自分とは違う『彼女』と行ってしまうのかも知れない。
自分はそれでいいのだろうか。少女は自問した。自分から何もすることなくただのうのうと待ち、挙句彼を彼女に奪われてしまうことを。そんな状況を許せるだろうか。また周囲はうわさするだろう。高飛車な態度でいたから彼に愛想をつかされ堀口に奪われたのだ、いい気味だ、と。
彼女にはそれを事実ではないがまったくの嘘と言い切れそうになかった。自分にも確かに落ち度があるという自覚があるからだ。
矛盾しているが、そんなことはどうでもよかった。真実はそんなところにはない。
少女は彼に行って欲しくはないのだから。
「アリガト、繭。わたし行くね……!」
少女は勢いよく俯けていた顔を上げると、再び走り出した。
少女は一目散に4組の教室に走ったが、教室には彼らどころか人っ子一人いなかった。
仕方なく彼の教室にも行ってみたがこちらも数人の生徒が残る以外は変わらなかった。一応彼が来なかったか聞いてみたが、先に荷物を持って出て行ってしまっていたため判らないようだ。
教室のドアを閉めると、少女は小さく溜息をついた。本当に帰ってしまったのだろうか。後は昇降口以外行くところがない。そう思うと憂鬱になった。
「急がなきゃ……」
最初の数歩を歩くとまたすぐに走り始めた。校舎の中をこんなに走ったことはない。
少女は不安に駆られながらも、笑いたい気分になっていた。自分はあまりにも莫迦すぎる。気づいたら本当に笑いたくなった。
自分は彼が好きなのだ。
それは誰がなんといっても変わらない。周囲の心ない者に翻弄され、自分の気持ちさえ見失ってしまっていた。それに気付いた。でも自分たちを知らない他人のことなどどうでもいいではないか。
自分はただ彼が好きで、そばにいたいだけなのだから。
そこには何の理由もない、素直な気持ちがあるだけだ。
今はただ、彼に逢いたかった。逢っていいたいことがあった。
Next is ...