綺麗な涙 −キレイナカンジョウ−

後篇:月満ちて、想い結ぶ

 けれど……
「うそ……」
 昇降口にも、彼らの姿はなかった。ためしに下駄箱を覗いてみるが、少女のも彼のも靴はなかった。代わりに学年色である臙脂のラインの入った上履きが、きちんと揃えて置かれていた。
 彼はもう校内にはいない。下駄箱は残酷な事実のみを伝えていた。彼は少女を置いて帰ってしまったのだ。一人で、或いは例の彼女と。
「うそだ……」
 駅まで走ればまだ間に合うかもしれない。しかし少女にはもうそんな気力は残っていなかった。息は完全に上がっていたし、広い敷地内を全速力で走ったおかげで足は完全に棒になっていて、教室で椅子を引っ掛けた左足が今になってじんじんと痛かった。
「帰ったなんて……」
 少女は遅かったのだ。
 彼の教室を出た直後はあんなに元気だったのに、今は笑う気すら起きなかった。悔しいとも悲しいとも感じない。心が完全に干上がっていた。
 視線は中空を捕らえていた。
「信じない」
 きっぱりと言い放つ。誰が聞いているわけではないけれど。
 けれど彼はもう学校にいないのだ。今日逢うことはかなわないだろう。少女と彼の家は電車では反対方向になってしまうのだ。追いかけようにも引き返すことを考えると、とてもではないが無理だった。
 ゆっくりと藍色に沈んだ玄関ホールを見回す。全校生徒が毎朝同時に利用しているにもかかわらずまったく狭さを感じさせない快適なホールは、こんな時に見るとひどくそっけない印象を与えた。伽藍堂という言葉がぴったりのように感じられる。
 孤独。そんな言葉が頭に浮かんだ。
 少女は何度も首を振った。ぱしぱしと髪が両頬を打って幽かに痛みがはしった。
 それが引き金だった。
「もう嫌……。こんなに辛いの……」
 もう嫌だ。本当に嫌だ。意地っ張りで素直になれない自分が惨めだった。意地を張ったばかりに大事な人を失うなんて。
「一人は嫌……」
 景色が滲んで見えた。人に泣き顔を見られるのが嫌いで、腕をつねってでも泣こうとしなかったのに、もしかして泣いているのだろうか。
 はたり。雫が床に落ちた。
 でも、と少女は思う。泣いたっていいではないか。好きな人を想って流れる涙なら。少女は嫌ではない気がした。
 胸が痛かった。後悔より嫌悪より、ただズキズキと胸が痛んだ。
 彼といない時間がこんなに苦しい。
 苦しくて、無意識に制服の胸の辺りをつかんでいた。
 そうした間にも、涙ははらはらと流れ続けた。
「貴方がいないと淋しいの……」
 泣いて帰ってきてくれるなら、涙くらいくれてやる。
 少しだけ声を張り上げる。
「どうしていないのよ……!」
「―――誰がいないって?」
 誰も聞いていないはずの問いに、返事が返る。聞き覚えのある声。否、待ちわびていた声。
 少女は振り返った。そこにはいないはずの彼が立っていた。


「―――なんで」
 彼は少女の姿を見て、苦笑いしていた。
「ぼろぼろだな。智明」
「……帰ったんじゃないの?」
 少女は彼を睨みつけた。本当は嬉しいのに。
「普段は服も髪も乱したことないのにな」
「わたしのことはどうでもいいの!」
 彼は少女の言葉を無視して話し続ける。なにがそんなに楽しいのか、彼は始終笑っている。
「髪も服もぐちゃぐちゃだ。青痣まで作ってる」
 そういうと彼は手を伸ばし、臙脂のリボンタイを結びなおしてくれた。正面からやっているにもかかわらず、逆結びになっていないところが腹立たしい。
「あんたのせいでしょっ!!」
 少女はとうとう怒鳴りつけた。こんなことがいいたいんじゃないのに、正反対のことをいってしまう自分が憎かった。
「そうかもな」
 彼は笑うのをやめて少女を見た。
「――……堀口さん、どうしたのよ。告白されたんでしょ」
 上目遣いに彼を見上げる。それでも睨むのをやめなかったが。
「ああ……」
 彼はうなずいて手にしていた小さな紙袋に視線をやった。見たことのないミントグリーンの紙袋。
「告白されたよ」
「それで、どうしたの」
「帰ったよ」
「……それだけ?」
「それだけ」
「でももう戻ってこないかもしれないって、繭が……」
 少女はなおも食い下がる。彼の言葉を信じてよいのか判らなかった。自身が信じたいのか信じたくないのかすらよく判らなかった。
「戻ってきただろ?」
「でも、でも……」
 少女はむずかるように首を振った。だってまだ、決定的な言葉を聞いていなかったから。
 不安になった。彼は自分に都合のいいことをいっているだけで、本当は別れを告げるために戻ってきたのではないのかと。
「今日みたいな日は、人に呼び出されたって仕方ないだろ」
 それはそうだろう。少女は唇をかみ締めた。
「榮は人気者だものね」
 視線を床に落とした。いいたい言葉が出てこない。早くいわなきゃいけないのに。
 また鼓動が早くなった。あせって、頭の中が混乱し始めていた。
「ずるいよ。わたし凄く榮の事、心配したよ。嫌なことも辛いことも榮はちっとも話してくれないんだもの。わたしが榮のところに行かなくなっても教室に来てくれないし電話もくれなかった。待ってたのに。なのに榮は全然変わらないんだもの……!」
「それは……」
「理由なんて聞きたくない! 混合クラスの娘に変な噂立てられた時だって、5組や7組の子に告白された時だって、取り巻きに呼び出された時だって……。すごく嫌だったけど、榮が好きだって、そばにいて欲しいって、そういってくれれば大丈夫だったのに!」
 彼の態度はあくまでも変わらなかったのだ。けれどそれがいけなかった。少女は彼にとって必要な存在であるということを実感したかっただけだ。
「わたしはこんなに榮のことが好きなのに!!」
 声の限りに叫んでいた。誰が聞いていてもかまわなかった。苦しくて、胸の中にある思いを吐き出してしまいたかった。
「―――やっといったな」
 溜息を吐き出すような彼の声。彼はのどの奥で笑っているようだった。
「なに……」
 いつの間にか、二人は吐息が絡みそうなほど近付いていた。
「智明に好きだといわせたかったんだ」
「何……それ」
「智明が素直じゃないから。本心で思ってることを、待ってるだけで自分からいおうとしないだろ」
「…………」
「だから智明が教室に来なくなったり、色々なうわさが立った時もわざと行かなかったんだ。お前が僕に対して何もいわないと憤ったように、僕も智明の気持ちを知りたかったからさ」
「……でも」
「でもじゃないだろ。智明はよく我慢していたよ。僕が生徒会長に選らばれることによって起こるすべての可能性を予測して行動していた。制服もきちんと着ていたし、成績も前以上に順位を上げていた。二学期のテストは一桁まで上げていたしな」
「頭は…元々いいのよ」
 常に15位以内をキープする成績ではあったが、まぐれ以外で10位以内に入ったのは二学期に入ってからのことだった。
 少女は感心した。この人は本当によく人のことを見ているのだと。これなら生徒会長になった途端に人々から注目されるのも当たり前かも知れない。
 近寄りがたい雰囲気をしているが、そんなところが女の子に好かれるのかも知れない。
「僕の隣にいることで、智明が男の中でかなりうわさになっているのは知っていた。お前は去年生徒会にいたしな。意外と有名になっていた。それを智明が嫌がっていることもな」
「うん……」
 少女は少年達の視線に晒されることも苦痛だったのだ。
「だからこそ、僕は智明の口から聞きたかったんだ。無理していないか、本当に今のままでいいのかを」
「―――!」
 彼は少女に返事を求めていた。別れることになるかもしれない選択の。
「智明、聞かせてくれ」
「あ……」
 この短時間でのどがからからになっていた。声がかすれている。急に手の中の小さな箱が存在を主張した。
 チョコレートの入った箱は、必死に走っていたために力が入ってしまい、歪んでいた。けれど、これでいい。必死に頑張った証だから。
 そっと差し出す。
「チョコレート、受け取って欲しいの――」
「有難う――」
 彼は笑っていた。嬉しくて、少女も笑い返した。
「泣くな、智明」
「泣いてないよ」
 こんなに人前で泣いたのは初めてだった。


「ねえ、もう真っ暗!」
 二人で校門をでた瞬間、外は夜の世界だった。
「冬だからな」
「そうじゃなくて。……堀口さん、結局どうしたの?」
 聞きそびれていたことを、口に出した。
「知りたい?」
「気になるもの」
「断ったよ。今の僕には智明しか考えられないからな」
「泣いてなかった?」
「……知らない」
 彼は苦々しい表情で答えた。相手の少女はよっぽど食い下がったようだ。
 可笑しくなって少女はくすくす笑い出した。彼の不幸ほど可笑しいものはない。
「笑うな」
「……月が綺麗だよ」
 はぐらかすようにいった。
 彼は月に見惚れたように立ち止まってしまった。
「どんなに沢山のチョコレートを貰ったって、本当に欲しい人から貰えなければそれは何の意味もない」
 この紙袋は重たいだけだ。人の好意を捨てるわけにもいかない。
 彼はそうつぶやいた。
「―――ねえ榮」
「ん?」
「大好きだよ―――」
 彼を見上げた先には、三日月が皓々と輝いていた。





おまけ

「実は、かけてたんだ」
「何を?」
「智明が今日僕のところに来るか来ないか」
「……誰と」
「――三橋たちと……」
「………陽菜め」
「で、榮は勝ったの?」
「圧勝。必ず来るってね」
「……(ブチ)」

+ fin +