綺麗な涙 −キレイナカンジョウ−

前篇:夕暮れに、永久を夢見る

 午後5時半。

 少しづつ日は伸びてきてはいるものの、まだまだ暗くなるのが早い季節。少女はガランとした教室に一人きりだった。
 この時間帯は部活か委員会活動がある者くらいしか残ってはいないだろう。
 人気のない3階には音もなく、遠くに聞こえる吹奏楽部のトランペットの音がかろうじて自分が一人ではないことを知らせていた。
 夕日に赤く染まる景色に、いつもとは違う感慨を覚えながら少女は校庭を眺めていた。外では真っ赤な日差しを浴びながら陸上部が走っている。
「夕日、綺麗だなぁ……」
 頬杖をつきながらもごもごと声をだす。誰かが見れば、自分も赤く染まって見えるのだろうか。
「…………」
 黒板の上にかけられた時計を何度も見上げるが、針は殆ど進んでいなかった。こんな気分で一人の時間を過ごすのは、少し淋しい。
「もう夕方ぁ――」
 淋しさを吹き飛ばすように少しだけ大きな声を出してみる。
 広い教室にぐわんと声が響いて、余計むなしさが増した。
 夕日は眩しいくらいに教室を照らしている。
「燃える教室……」
 再びぐわん。
 机に伏せられた読みかけの本を手にとる。友達から借りた文庫本の癖にやたらと厚い推理小説だ。だがはっきりいって面白くない。
「きょーこはわたしと趣味違うからなー」
 それを判っていながら彼女は次々と寄越してくる。頑張っていつも読んでいるが、殆ど読了したことはなかった。今回の本は2,30ページ読んで飽きてしまった。おかげで暇つぶしにもならなかった。
「どうせならこんな日くらい、恋愛小説貸してくれたっていいのに……」
 あの響子がそんなもの持っているとは思えなかったが。
 今日は年に一回、女の子が頑張る日。
「せめて図書館で……」
 図書館で待っていられたら、こんなに暇ではなかったかも知れない。
 なんて阿呆なんだろう。
「図書館閉鎖中だよ……」
 考えるだけ無駄だった。
「はああぁ……」
 大きく溜息をついて、目の前にある小さな箱をつついた。自分で決めたことだ。
「待っているしかないんだよね……?」
 もし、逢いたいのなら。

 それは彼女の小さなプライドだった。
 生徒会にいる友達が、彼を連れてきてくれるまで教室で待っていなければならない。自分から逢いに行くわけにはいかない。
 彼と同じ生徒会役員の陽菜と、問題の図書館で委員会活動中の繭は彼を連れてきてくれるといっていた。「絶対だよ」と彼女達は笑っていた。どうやって連れてくるのかは判らないけど、大人しい見た目とは対照的に陽菜はかなりの行動派だ。引きずってでも連れてくるだろう。
「お腹空いたなー」
 ぐわん。また教室に声が響いた。教室には陽菜と繭のカバンだけが置いてあった。HRが終わったと同時に、彼女と仲のいいグループの友達が、クラス全員に荷物をすべて持たせた上で教室から追い出したのだ。5年前まで女子校だったこの高校に咲く花園、いまだに女子校であり続ける中等部からの持ち上がりのみで構成される女子クラスであるこの教室のクラスメイトは、頑張ってねといいながら満面の笑顔で出て行った。
 女の子は恋愛に対して優しい。
だから宿題でも忘れない限り誰も戻ってこないだろう(宿題でも戻ってくるか怪しいが)。彼を連れてくる陽菜と繭のため、あるいは教室を空けてくれたクラスの友達のためにも、少女は帰るわけにはいかなかった。だから彼女は本当に一人だった。

 廊下を歩く人の声が聞こえた。隣のクラスにちらほら人が戻り始めているようだ。そろそろ委員会も終わる頃だろうか。それとも単に居残っていただけだろうか。
 このドアの小窓を人影が通り過ぎてゆく。その人影が止まる気配はない。
「……遅い」
 小さく声に出す。でも応える声はない。
 やっぱりこのまま帰ってしまおうか。
 今日は土曜以外で授業がもっとも早く終わる日だった。だから彼女は2時間近く待っていることになる。初めの30分くらいの間は陽菜たち3人を含む何人かが一緒にいてくれたのだが、みんな部活や委員会で教室を出て行ってしまった。
 はじめはこの後のことを想像しながら、少しの期待と不安で軽く舞い上がっていたのだが、それも教室の静けさと幽かに開いた窓から時折流れてくる風に当たるうちに、少しずつ落ち着いていた。
 普通に物事を考えられるようになった。
 冷静さを取り戻すと同時に、嫌な想像ばかりが頭をよぎるようになった。

「来ないのかな……」
 今や少女の心を占めるのは、不安だけだった。
 約束をしたわけではない。こんな無理やりに連れてこられるような人間でもない。嘘をいって素直にだまされてくれるとは思えない。(どんな人間だ……)
 いくら強気の陽菜でも、本気をだした男の子の力にかなうはずがない。彼を連れてこられる確証なんてはじめからないのだ。
「―――そうしたら、どうする?」
 小さくつぶやいて、少女は目を伏せた。視線は再び目の前にある小さな箱を捕らえた。深海のような青い包み紙にくるまれたほろ苦いチョコレート。彼に渡したくて作ってきたけれど。たとえ渡すことができたとしても、受け取ってもらえる自信さえない。
 いっそ自分で食べてしまおうか。
 そうすれば受け取ってもらえない悲しみを味わうことはない。……受け取ってもらう喜びも失ってしまうけれど。
「絶望的だ……」
 少女は机につっぷした。長い髪が頬に落ちかかる。
 こんなことばかり考えていてはいけないのに。
 なぜこんなに悪いほうにばかり考えてしまうのだろう。意地を張ったのが悪いのだろうか。それともこんな薄暗い教室に一人取り残されるようにしているのが悪いのだろうか。
「うすぐらい……?」
 少女はあわてて窓の外を見る。空は夕焼けからほんのりとしたピンク色に変わり、東側は早くも藍色に染まり始めていた。
「うそ……」
 電気のついていない教室にはわずかに廊下の明かりが差し込んでいた。時計を見る。時間は6時を回ろうとしていた。
 鼓動が走ったときのように早くなる。彼は本当に来ないのだろうか。この薄暗い教室に自分一人を残し、帰路についてしまったのだろうか。
 たくさんのチョコレートを片手に。
「いや……」
 そんなのは嫌だ。彼が自分のことを置いていってしまうなんて。自分以外の誰かのチョコレートで満たされたカバンを持って帰るなんて。
 想像するだけで嫌だった。自分以外の「誰か」に、憎しみすらわく気がした。
 さらに鼓動が高まる。もう胸が苦しいくらいになっていた。
 嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ………
 少女は手を握り締めた。

「彼は今、凄く人気があるよ」
 いつだったか繭が話していたことを思い出す。すきあらば少女から彼を奪ってしまおうと、虎視眈々と狙っている少女たちがいる事を。
 それは2年生に限ったことではなく1年生、果ては一部の3年生にまで及ぶのだと。
 少女には、なぜ彼がそこまで少女たちに人気があるのかがわからなかった。彼女にとって彼は一番であること意外、何の変哲もない男の子でしかなかった。だから「彼に憧れる」といって騒ぐ少女たちが不思議でならなかったのだ。
 俳優や歌手に憧れることと同じように、一時の気の迷いのようにしか思えなかった。熱に浮かされたように一時的に舞い上がって騒ぎ立てる彼女たちに、一体彼のなにを理解できるというのか。
 彼女はそう思っていた。だからそんな少女たちなど気にも留めなかったのだ。
 でもその中に本気で彼を好きになった少女がいたとしたら?
 彼はどうするだろう。

 遠くから走る足音が聞こえて、少女の思考は断ち切られた。誰かが忘れ物でも取りに戻ってきたのかも知れない。
 足音はこの教室の前で止まった。少女は小さく息をのむ。
 これで、自分の命運が決まるのだ。
「智明っっ!!」
 戸を開ける音と同時に、陽菜の怒声が響き渡った。
 教室に戻ってきたのは陽菜だけだった。図書館から走りどうしだったのだろう、彼女の息は完全に上がっていた。
 少女は首だけ振り向いて陽菜を見た。身体が動かなかったのだ。
「あきな……」
 これが答えなのだろうか。
 彼は来なかった。彼女たちが考えた作戦には乗らなかったのだろうか。それともこうして今も意地を張って教室から出ようとしない自分に、彼はあいそをつかしてしまったのだろうか。
 嫌われてしまったのだろうか。
 指先が震える。まともに物を考えられなくなっていた。
 目の前のチョコレートを見つめる。深い青色のはずの箱が、真っ黒く染まって見えた。
「早くしないと黒崎くんがっっ……!」
 やっぱり彼は帰ってしまうのか。
「帰っちゃったの?」
 少女は薄く笑った。それでは仕方がないではないか。
 自分に、もう用はないのだ。
「そうじゃなくてっ!!」
 彼女はじれったそうに首を振った。けれど少女からは逆光になっていて切羽詰った表情までは見られなかった。
「4組の堀口に呼び出されたっっ!」
 ガタン……!
 音を立てて立ち上がった。はずみで椅子が転がって足にぶつかったが、少女は気付きもしなかった。


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