朧月夜に咲く君の…

 一族の姫が姿を消した。
 理由は簡単だった。彼女は駆け落ちをしたのだ。


 姫君が姿を消して数ヶ月――


 彼女は綾野と呼び名を代え、恋人と共にある屋敷の下働きに身をやつしていた。
 人にかしずかれて生活してきた彼女にとって、初めての事柄ばかりで中々平民の所作が身に着かず苦労が絶えなかった。覚悟の上とはいえ、「姫君」として生きてきた綾野にとって大変な事だった。
 それは、彼女が自らの仕事になれ、回りの者たちと親しく言葉を交わすようになった、その矢先の出来事だった。


 他の下女と共に最後の湯を使っていた。
「――ほら、外を見てご覧。また誰かが湯殿を覗こうとしてるよ」
 ある下女の呆れたような声に、他の下女たちが湯殿の上の方についた格子窓に注目する。
「あれ、本当だ。そんなことしたって見えっこないのにねぇ」
「のぞきが増えたのも綾野ちゃんが来てからだ」
「安心しな、何かあったらあたしたちが守ってあげるから」
 先輩格の女が綾野に向かって笑いかける。
「有難う……ございます」
 綾野は幽かに苦笑いを浮かべ、洗い場へと向かう。

 すると、がらりと音を立てて湯殿の戸が開いた。
 女たちはみな桶を手に覗きを叩きのめそうと立ち上がった。
「このでば亀がっ!!」
「今日こそただじゃおかないよっ」
「観念しな!」
 だが――、
「あ――…」
 現れたのは、覗きを働こうとしていた下男たちなどではなく、簡略した戦装束を身に纏った男たちだった。
「失礼。こちらに―――」
 首領格と思われる40絡みの男が、左右に視線をやる。すると湯気でよく見えないはずの湯殿を、真直ぐに綾野に向かって歩き始めた。
「綾野ちゃん……」
 女が心配そうに彼女を見る。
 男が綾野の腕を取る。
「――失礼」
 そういって彼女の首筋に顔を近づけた。
 彼女が首を振る。
「――お止め下さい」
「十六夜様ですね」
 男は綾野に跪く。
「わたしは綾野と申すただの下女。十六夜などと云う名は存じません」
「いいえ、貴女は十六夜姫様だ」
「違います」
「お探しいたしました」
「嫌っっ」
「私と一緒に、お帰り頂きます」
「……嫌です。わたくしは帰りません」
 いつの間に二人に近づいた別の男が綾野に着物を着せ掛ける。
「さあ、もう時間がありません」
「嫌です。帰りません!」
 綾野は男の手から逃れようと身を捩るが、鍛えあげられた男の腕は簡単に動きを封じてしまう。
「わたくしは名を棄てたのです。喩え何があろうとも、二度と城へは帰らぬと決めたのです」
「なりません。もう貴女様の戯れを見逃すものはどこにも居りません」
 さあ、といって男は綾野を強い力で引っ張り上げる。
 意に反して綾野は立ち上がってしまう。
「嫌です。帰りません。嫌、嫌―――おしの、忍野、嫌―――!!」
 湯殿に綾野の叫びが木魂した。