黒曜石の魔女

 ――黒曜石の魔女の呪縛に絡め取られ、無様に喘ぐ哀れな僕ら。


「――ねぇ、貴方のお姉様ってとても言い表せないくらい醜いのですって?」
 遠くに夜会の喧騒を聴きながら、人を避けて中庭に設えられた長椅子に腰かけている処へ声がかけられた。長椅子の空いた場所にはメイドに運ばせた銀盆。その上には血のように赤い果実酒と、酒に合わせて簡単に手で摘める食べ物が芸術的に配され優美な絵を描く皿が一枚。
 夕暮れが迫り、茜色に染まった世界は光と影の加減を強くし、明るい所は黄金色に輝き暗い場所は闇を濃くしている。
 始まったばかりの会で庭に出る者はなく、茜色に満たされた美しい風景を見ている者はいない。
 この日のために庭のあちこちに下げられた洋灯の明かりや、煌々と焚かれた室内灯の光の届かないこの場所によく気付いたものだと目の前にたった声の主を振り仰ぐ。
「綺麗な空ですわね。――隣、よろしいかしら」
「申し訳ない。先客が」
 断って、青年は彼女を見つめた。夕暮れの光を浴びて赤く染まった少女が挑発的な表情でこちらを見ていた。この日のためにあつらえたであろうドレスは彼女の睛に合わせた鮮やかな緑。宝石のような透明感と軽さを出すために最高級の絹地を使っていることは明らかで、すらりと長い手足や染み一つない白い肌を、夕日を浴びて赤銅に輝く髪を引き立てていた。
 普段は気の強そうなしっかりとした意思の宿った大きな睛が揺れ、細く繊細なアーチを描いて整えられた眉が幽かに顰められていた。
「みんなそういうね。でも僕はそんなふうに思ったことはないよ」
 いつも自信たっぷりな態度の彼女らしくなく、きゅっと握り締められた手を見つめながら、最初の質問に静かに答えた。
「そう。それは貴方があの醜い鈍色の仮面の内側を知っているからかしら」
「いや、ねえさんはどんな姿かたちでも、あの魂がもっとも美しいんだ」
 だから。――だから、と云いかけて口を閉ざした。
 彼女は自分がこんな答えを返すことは重々承知の上で、言葉を投げかけている。
 それでも僕は、こんな答えしか口にすることができない。
 静かに胸の奥深く、雪のように降り積もった怒りを溶かすように僕は姉を真似た慈愛に満ちた笑みを浮かべる。自分の心をも偽るように、深く深く。
「どうかなさって?」
 優雅な仕種で小首をかしげる。綺麗に整えられ、時間と多くの手をかけて拵えたであろう美しい巻き毛が一房、動きに合わせて揺れる。
 鼈甲を思わせるつやつやとした輝きは、まるで陽光そのもののように光を弾いて輝く。色は違えど甘い蜂蜜を思わせる艶髪が、姉の闇を束ねたような黒髪に重なって、僕は眩しくて目を細めた。
「――いや」
 姉は、誰よりも何よりも、美しい人だった。
 肌理細かで艶やかな肌、きらきらと星を浮かべる睛、果実のような唇。爪は貝細工のように見事に形のそろった薄桃色、腰ほどまである闇色の巻き毛は豊かで日の光を受け止め月のように淡い光を跳ね返し秘めやかに輝いていた。女神を模して作られた彫像よりも神々しく、繊細で、世界中の宝石を集めても足りない位に美しい。
 夜会の華、茶会の主。大勢の集まる会には必ず呼ばれ、母親ほどの年齢の女性をも楽しませる教養高い会話で、早くに亡くなった母の代わりを見事にこなしていた。
 また夜会では姉の身に着ける装飾品や組み合わせ方、ドレスに使用される生地や刺繍が素晴らしいと評判で、社交界では姉の着こなしを手本にしていた女性が沢山いた。
 落ち着いた身のこなし、控えめでおっとりとした仕種、常に他人を気遣う優しさ。刺繍やレース編みの腕も素晴らしく淑女の鑑と云われ、貴族の子弟の間では姉の愛らしい笑顔を見られた日は、一日いいことがあると噂される程だった。
 そんな姉が、僕にとっては誇りであり、自慢であった。
 公爵家の宝石姫、――そう謳われたかけがえのない存在。
 それが、去年のことだ。姉は不慮の事故により顔の半面に火傷を負った。
 総領娘として公爵家の跡を継ぐことになっていた姉の事故に父は酷く狼狽し、医師の手配や事後処理などの雑務の殆どを自分が行ったくらいだった。
 幸い処置が早く、よい医師に巡り合うことができたため大事には至らなかったが、それでも傷が完全に消えてなくなるということはなく、姉の顔には赤黒い引き攣れが残ることになった。
 たとえどれほど念入りに化粧を施しても消しようのない疵。その絶望は僕には想像もできない物だったろうと思う。
 しかし姉は一ヵ月後、まだ包帯の取れぬ姿のまま父の前で公爵家の跡を継ぐことを辞退したい、と訴えた。
 不慮の事故とはいえ疵の残る顔で人前に、公爵家の総領娘として――ひいては女公爵として人前に出ることはできない、と。
 公爵家の行く末はいつも光り輝いていなければならない。そのためにはひと垂らしのインクほども曇りがあってはならないのだから。
 そう云って、悲しげに目を伏せたことをよく覚えている。
 それからすぐに、姉の婚約が解消されたことが社交界に流れた。公爵家の跡継ぎとして世に宣言されてすぐに交わされた婚約は、幼馴染にも等しい間柄の公爵家の子息が相手で、こちらから婚約の取り下げを願い出たということになっているが実際はその逆だった。
 ある晩見た手紙を手に涙を流す姿に、その悲しみはいかばかりだろうと思う。
 そうして、姉の代わりに僕が正式な公爵家の跡取りとなった。
 姉にはゆっくり静養して貰い、公爵家の総領娘としてではない一人の女性としての幸せを手に入れて欲しかった。
 ――いや、自分が、姉を幸せにするのだ。そう思っていた。

「あれからすぐ、お姉様は婚約を破棄なさったわね」
「結婚した場合も公爵家の血を引く者が執務を行うので、婿のなり手は少ないんだ」
 公爵家では男女の別なく最初に生まれた子供が跡を継ぐことになっているので、女が総領となった場合は外から婿を取らねばならないが、女主人であっても男性の場合と同様に執務をこなすので、すすんで公爵家に入りたがる男性は少ない。
 それどころか、姉が公爵になった場合の執務補佐は夫ではなく弟である自分の役割になる。必要なら血縁から年の近い男児を養子に迎えることもある。
 跡継ぎでない立場の男児が政治的手腕を振るうには、女性が跡継ぎの家に婿入りするのが一般だが、それすら叶わないのでは婚約した意味がない。それ故に懇意にしている家との婚約だったのだが、顔に疵を負い、跡を継ぐ見込みの薄れた姉では夫妻として社交界に出ることもできないかもしれない。それでは困るということなのだろう。
「婚約者の未来を思って破棄なさったということ?」
 言葉にならない皮肉を口に乗せて笑った。
 婚約を破棄した後の姉の姿が不安そのものだった。その頃の姉は疵は回復を見せ始めていたものの、いつも塞ぎこんでいて食が細り、何日も部屋から出ようとしないこともあった。
 常に日陰に身を置き、服もそれまでの華やかな衣装を封じ、まるで裳服のような黒い衣装ばかりを身につけるようになっていた。その上包帯を隠すために屋敷の中でもベールをかぶっていて、いつか死神と結婚するのではないかと気が気でなかった。
「違うわね。あの方がそんなことなさる筈がない」
 彼女は何かを思うように遠くを見やった。
「宰相家に次ぐ力を持った公爵家との婚約ですもの、どれほど家同士が懇意にしていようと政治的な付き合いを抜きにはできない。屹度貴方のお父様は公爵家と話をした筈。貴方の家がどれほどの家柄かを知っていて、公爵だって簡単に断ることはできない」
 それなのに。と彼女は言葉を切って、こちらを見据えた。
 ああ始まる。
 自然と身体に力が入る。まるでこれから剣の打ち合いをしようというように前傾姿勢になり、身構える。
 まるで宝石のような深い緑色の瞳は喩えようもなく澄んでいて、こちらの嘘や戸惑いを簡単に見抜かれてしまいそうだ。
「貴方のお姉様の云い分もよく判ります。顔を傷つけてしまっては外出は勿論、社交界への出席も難しくなりますもの。公爵家程のお家柄であれば尚のこと。これまでのようにお美しいかんばせを人前にさらす事はおろか、あのような銀の仮面をつけなければ人前に出られないのだとしたら、どんな素晴らしい働きをしたって、事故のことを忘れることなんてできはしない」
 水の調べのようなささやかで芯の強い声を聴きながら、胸に再び雪が降り積もるのを感じる。
 しんしんと冷えて、身体さえも凍えそうな冷たい雪。
「あの方は、人々の記憶から消えたかったのかしら」
 これは誰に向かう怒り?
 とうとうと言葉を紡ぐ紅い唇から目を話すことができず、意識は遠く遠いところへと向かおうとする。
「いいえ、屹度違う。あの方はそんなことを望んではいなかった。だって、だとしたらあんなことをなさる筈がないわ」
 赤い赤い唇。まるで姉の唇のようだ。言葉を紡ぐ、笑みを浮かべる、唇。
 姉はいつも、儚く甘い笑みを浮かべていた。
 困ったような、誘うような、悪戯を思いついた少女のような。
「まるで醜聞」
 傷ついたように伏せた睫毛が震えていた。
「けれどあの方はそんなこと、ひとつも気にしていらっしゃらない。何物にも傷つかない気高い花、何物にも染まらず、汚されることのない処女雪のようなひと」
 意識をこちらに引き止めたのは、皮肉にも彼女の声。
「――魔女のようなひと」
「なに、を」
「ねえ、貴方なら知っているのでしょう。あの方がどうすれば傷つくのか。何を悲しいと思い、憎く思うのか」
 腕を掴まれた。きつく、きつく。
「この間の夜会であの方のお姿を拝見したわ。その時着けていらした銀細工の仮面は贈り物なのですって。控え室で二人きりになった時に秘密と云って傷跡を見せて下さったわ、疵はすぐには消えることはないけれど、時間が経てば少しは薄れるって。だからいずれは仮面を取って人前にでることもできるかも知れないと仰っていたわ。あれの何処が醜いの? あの方はどんな魔法を使ったの? ねえ!」
「……」
「醜悪なのはなんだと思って? あの方の火傷の疵? 仮面? それとも――」
「黙れ!」
「あの方はわたくしの初恋を奪ったのよ」
 仇を見つめるように憎しみの宿った睛だった。それでも澄んだ瞳の奥には、他者を憎まなくてはならない悲しみと、絶望が揺れていた。
「わたくしが彼をどれほど慕っていてどれほど焦がれていたのか知っている? いいえ、知りはしない。知っていたら、あんな酷い仕打ちができるはずがないもの」
 頑是無い小供のように首を振る。屹度彼女はもう僕のことなど見てはいないだろう。
「貴女さえ現れなければ、わたくしはお兄様の婚約者でいられたのに!」
 子供のころの憧れが一生続くなんて思っていない。
 お兄様と不安げな声で呼びながら、前を行く彼の服の裾を掴んで歩く子供ではないのだ。相手の好意がどんな感情から来るものなのか、判らない年齢ではなかった。
 それでも彼が笑いかけてくれれば嬉しかったし、この想いが永遠に続けばいいと思っていた。
 たとえ心が何処にあろうとも、総てを手に入れられなくとも、好意を持たれているだけでよかった。幸せな夢を見ていられるはずだった。
 生まれた時には結婚相手が決められていて、それが当たり前の世界なのだ。
「妹の好きだって構わなかった……」
 どうせままならない関係なら、せめて好きな人と結ばれたかった。
 そういって涙を流す彼女を呆然と見つめた。
 同じじゃないか。彼女も僕も。

 これまで爵位を継ぐ姉を支えるため懸命に勉強してきた。本家での暮らしは楽ではなかったが、この家の成り立ちや国との関わりを知ることは思った以上に面白く、何故自分にこの役を与えられたのかが理解できるようになった。
 そして、何より姉の存在が大きかったのだ。
 総領娘として育てられてきた姉は、自分と三つ程しか齢が変わらないのにとても沢山のことを知っていた。ときに教育係の出す大量の宿題を手伝ってくれたり、普段の授業では教わらないような些細な疑問にも答えてくれた。
 その上女性としての教養を身につけるため、多くの教育係が常に付いていたように思う。
 それでも疲れた顔ひとつ見せず、それどころか完璧な受け答えで間違えるところを見たことがなかった。
 僕はその姿に憧れたのだ。
 いかなる時も背を伸ばし、光に向かってまっすぐ進むその姿に。
 だからこそ、いつ何が起ころうと姉を支えられる存在であろうと努力を惜しまなかった。少しでも早く姉の横に並びたいと、並び立って恥をかかせぬ様にと。
 それだけに自分に頼ってくれた時は、本当に嬉しかった。
 何があっても叶えようと思った。
「僕にもわからない……」
 あれは屹度、悪魔の囁きだったのだ。
 思い出し、拳を強く握り締める。
 「姉」であるあの人。いつもいつも手に入れたくて、手の届かない高みにいる人。人を安心させる天使の微笑み、温かい頬を撫でいつもやさしく僕を励ましてくれた姉。
 熟した果実を思わせる艶やかな丸みを帯びた唇が紡いだ言葉に、いつしか甘い幻を見た。
 ――もし、私が二目と見れぬ姿になったら、ずっと一緒にいられると思うの。
 たとえ傷付けることになっても、愛する人と結ばれることができるのなら――、と。
「事故があった後、僕は、手に入れられると思ったんだ……」
 これから先、姉の傍にいられるのも傷付いた姉の心を支えられるのも自分しかいないと思っていた。
 開いた掌には、強く握り過ぎたために爪が皮膚を突き破り、赤く滲んだ三日月がいくつも浮かんでいた。
 朧月に触れるがごとく、ありもしない夢を描いていた。それが、実体を伴った想いに変わるかも知れない、そう思った。
「僕が守りたかった」
 何があっても、ずっとずっと、つがいで世界を飛び回る渡り鳥のように何処までも姉と共にありたいと思っていた。
 それが罪なら総てを僕が引き受けて、光を受けて幸福に微笑む姉を見ていたかった。
 ――いいや、違う。
「総てを僕のものにしたかった」
 どうせ誰かのものになってしまうのなら、それが僕では何故いけない? 姉が望むなら、分をわきまえぬ行いと批難されても構わなかった。
 それなのに。
 姉は二度と手に入らない場所へといってしまったのだ。
「義姉さんは、欲しいものを手に入れたのに」
 絶対に、手に入れることのできないものを、僕や彼女や義父さんや沢山の人間に禍根を残したまま。
 あの時は甘美に感じた罪悪感が、今は咽喉を灼く嫌な感触を伴って胸に苦く広がった。
 一年前の自分を嗤う。
「君や僕は失うしかないんだね」


*


「申し訳ない。何もできなくて」
 そういって、彼はわたくしの顔を見ないよう視線を逸らし、未だ涙に濡れる手の中に白い手巾を残して立ち去った。
 隅に艶やかな紺色の糸で凝った文様と一緒に刺繍された名前に指を這わす。繊細でゆがみ一つない完璧な刺繍は、屹度あの方の手になるものだろう。
「貴方も苦しんでいたのね」
 わたくしと貴方から恋を奪い、自身の恋を掴み取ったあの方。社交界の花。美しい顔を、神秘的な漆黒の髪を、或は公爵家の総領という名誉を失い、代わりに絶対に手に入れることのできない恋を手にした。
 これを魔法といわずしてなんと云おう?
「貴女は、冷たい銀の仮面の下に、どれ程の情熱を隠していらしたの?」
 総てを失ってでも手に入れたい物。大切な人を裏切ってでも欲したもの。それを手にするために多くの犠牲を払い、何も知らない義弟を甘い夢で惑わせて、自ら一生消えない疵を負った。
 まるで少女が一度は憧れる恋物語の主人公のようだ。もしわたくしがこの物語に関わりさえしなければ、あの方を愛したお兄様のことを、心も身体も傷付いた女性を親の反対を押し切り深い愛情で迎え入れた素晴らしい人だと思ったことだろう。
「あの方は、わたくしや貴方の恋心を踏みにじって生きていかれるのだわ」
 屹度彼はこの先苦しみ続けるだろう。自分の恋を終わらせることもできず罪の苦しみに耐え、わたくしの想いをも背負うことを是とした。
 そんな想いなら棄ててしまえばいい。そうしてもっともっと沢山の幸せを手に入れるべきなのだ。わざわざあの方の罪を背負うことはない。
「本当は憎むべきなのだけど」
 自嘲気味に嗤う。
 去り際に頬に受けた慰めるような接吻を思いだし、胸に湧き上がる想いを捨て去ることなんてできない。
「莫迦な人」
 貴方も――わたくしも。



fin