千切れた絲

「―――あ」
「……久し振り」
「うん。久し振り、だね」



 ――好きな人が、できたんだ。

 あの日、あの雨の日曜日。彼はそういってわたしの元を去っていった。
 『これ』をなくしてはいけないといった彼との約束を守れなかった、わたしへの罰なんだと思った。
 なくしてしまった事を隠していたわたしへの罰。
 彼とわたしの見ているものが違ってしまったとしても、それは仕方がなかった。
 彼から貰った『モノ』をなくしてしまったわたしには、彼を引き止める権利なんてなかった。
 あれから1年、わたしは彼を失った哀しみから抜け出そうとしていた。その矢先――。
 あの時と同じ場所で、わたしたちは再会した。


「よかったらお茶飲んで行かない?」
 云い出したのはわたしの方だった。
 付き合っていた頃よく出かけた街での再会。嬉しさと懐かしさで、昔よく通ったお店に彼を誘った。
 胸の痛みを伴った幽かな甘さは、わたしにそんな衝動を起こさせた。
 あまりいい別れ方をしたとは思っていない。けれどこの1年の間に、それなりに心の整理はついていた。
 だから大丈夫。そう言い聞かせて。

 話の中身はたわいのない事ばかりだった。
 近況報告に始まって、友達のこと、好きな音楽や最近観た映画。
 まるで昔のように彼と話せた事が純粋に嬉しかった。
 嫌いで別れた訳ではなかったはずだから。

 わたしは彼の人柄が好きだった。それは付き合う前の友達だった頃も、別れた後に友達から話を聞いた時も変わりなかった。
 そう、今も変わることなく。
 だから。


「途中まで送るよ」
 彼はあの頃と変わらぬ声で、そう云ってくれた。
 あの頃のように手を差し出してくれることはなくなったけれど、わたしは小さく肯くと並んで歩き出した。
「この道、なんだか懐かしいね」
「そうだな」
 駅へと続く道を歩きながら、これまで当たり前に二人でこの道を歩いていたことを思いだして、懐かしさがこみ上げてきた。
 そうだ。当たり前だったんだ。
 そう思うと、胸が苦しくなった。

 緑色の環状線の駅へと向かうお決まりの道。
 泣いたり笑ったり、お喋りをしたりして過ごした十分間。
 それはもう、二度と帰ってこない時間。

 そして、電車は大きな乗換駅に着いた。
「じゃ、俺はここで降りるから、気をつけて」
「――うん。アリガト」
 途中まで同じ電車に揺られて帰る、帰り道。
あの頃彼は当たり前のように最寄り駅まで送ってくれて、その上家までの帰り道まで心配していた。わたしは心配性だなぁ、何かある筈がないよって笑いながらいったんだ。
 けれど彼は、やはり当たり前の様に電車を降りてゆく。
 あの頃とは、違うって判っていた筈なのに……

 ワタシタチ モウ コイビト ジャナイ、テ

 約束を、破っちゃったんだから。
 彼には新しい彼女が既にいて、凄く幸せで。
 わたしは、『あれ』をなくしちゃったんだから。

 アノコロノヨウニ イク ハズガ、ナイ……

 手を繋ぐことも、一緒の時間を過ごすことも、ご飯を食べることも、夢を語ることも、抱きしめることも。
 たぶんもう、一生無い。
 不意に湧き上がった感情に誘われるように、涙が視界を滲ませた。
「―――っ」
 それは予め、覚悟していたことなんだから。
 泣いては、駄目。

 カツ――――ン……

「やだ、何で………」
 溢れそうな涙を押さえようと、ハンカチを取り出したその時。
 『それ』がこぼれ落ちた。
 彼の声が蘇る。
「何で今更出てくるのよっ………!」
 周りの人のことなど構わずに、わたしはただ叫んでいた。

 そこには、蝶々結びの形をした、銀のピンキーリング。
 失くしてしまった筈の、彼と私を結ぶ『赤い糸』。


 ―――俺たちの、『糸』が切れないように、持っていて欲しいんだ。


 まるで未来を予測していたようだ。
 赤い糸の呪縛。
 結局私はそれに捕らわれたまま。


 赤い糸のその先は、一体何処に繋がっているのだろう。



 終