淋しいの病

 ある日、ウサギがやって来た。
 泣いてばかりいた少女の為に、「家」の大人達が与えた物だ。少女はとてもよろこんで、一所懸命ウサギの世話をした。
 はじめて触れたあたたかい存在は、とても柔らかくふかふかしていた。
 そのちいさな命を、少女は絶対に大切にすると決めたのだった。

 同じ位の齢の小供の輪の真ん中で、つややかな黒髪の少女が泣いていた。
 背中に、何故か生えている翼は心なしかうなだれ、アリよりも體を小さく丸めて声も立てずに泣いていた。
「まぁたかなえが泣いてるー」
 輪の後ろの方にいた少女が詰まらなさそうに言った。その隣の少年がうんうんとうなずいて口を開いた。
「‘ハカセ’がいなくなると、すぐ泣くんだよね」
「あたしだって、さみしいのにさ……」
「みんな一緒だよ」
 「家」の大人がいなくなると少女はいつも泣いていた。
 この「家」に来たばかりの少女は少し前まで‘ハカセ’と一緒に暮らしていた。だから外の小供達より淋しくないはずなのに、と小供たちは口々にいう。
 一体何が不満なのか、少女はまだ泣き続けている。
「華叶っ」
 そこへ、小供たちの間をすり抜けて一人の少年がやってきた。そうとう慌てて走ってきたのか顔が真っ赤だった。
 少年は心配そうに眉根を寄せて近づくと、泣いている少女の手を引いて人の輪を抜けいつもの庭に向かって走り出した。


「また泣いてたの?」
「嘉槻には関係ない」
 少女はぷいとそっぽを向いて、芝生にすわった。
「――そんなに泣いてると‘淋しい病’になるよ」
 少年は、少女を横目で見ながら、意地悪そうな声でいう。
「……なぁに、それ」
「‘淋しい病’だよ。知らない? 華叶みたいにいっつも泣いたり、いじけたり、すねたりしてると、本当にココロまで淋しくなっちゃうんだ」
「――…知らない」
「それでね、誰からも相手にされなくなるんだ。みんなや、ハカセからも」
「うそ!!」
 いつもの少女らしからぬ大声に少年はうろたえた。けれど、そこまで必死に否定する華叶の態度――或いは‘ハカセ’に対する執着――に言い知れぬ苛立ちを感じた少年は、更に意地悪くいった。
「嘘じゃないよ!」
「嘘だもんっ。嘉槻のバカッ意地悪ー!!」
「だったら華叶はそうやってずぅっと泣き続ければいいだろっ」
 普段の少女からは想像もできない様な速さで立ち上がると、キッと少年をにらみつけた。
「それでみんなからきらわれればいいんだ」
「………ぅ…」
 必死の形相で嘉槻を睨む華叶の瞳にじわじわと涙が滲み始めた。
「やだぁ――…」
「かなえ……」
 再び泣き出した少女に、少年は途方にくれて空を見上げた。

 1週間後、華叶は「家」にやって来た大人からウサギを手渡され、その日を境に少女が淋しがって泣き出す事はなくなった。

「ウサギはね、淋しいと死んじゃうんだってさ」
 ある時、少女がウサギに餌をやっていると、少年はそう言って近寄ってきた。
「大丈夫よ。わたし毎日お世話してるもん」
「華叶と一緒だね。昨日だってさ夜泣いてただろ」
「あっちへ行ってて」
 ‘淋しい病’と少年に言われると、少女はいつにも増して不機嫌な顔をして少年を追いはらった。
「――うささんはわたしがまもるんだから」
 ね、と声をかける。
 少女は、えさを食べる時のウサギを見るのが好きだった。
 ひくひくする鼻とか、ちょこちょこ動く手足が、たまらなく可愛かった。
 真白いウサギは、少女を象徴するようだった。
 ふわふわとあたたかい體を抱いていると、とても安心できた。
「………」
 だから、絶対に死なせたくはなかったのだ。


「お前はいいなぁ……。守ってくれる人がいて」
 少女に用があってウサギの世話ができない時も、誰かどうかがやって来てかいがいしく世話をしてくれていた。少女の事を毛嫌いしている小供でさえ、彼女の目を盗んではウサギを触りに来てている事を少女は知っていた。
 多分きっと、このウサギは自分がいなくても誰かに大切にされるだろう。
 そう思うと悲しい様な、腹立たしい様な気持ちがした。
 そう、悲しんだ。


 別の日、少女が部屋でウサギと遊んでいると誰かが「家」の大人がやって来た事を知らせて回る声が聴こえた。
「――華叶、ハカセが来たよ」
 他の小供と同様に走ってやって来た少年に、少女は背を向けたまま返事もせずひたすらウサギを構っていた。
「何してるの。……華叶?」
「ミルクと遊んでるの。だから嘉槻が一人で行って」
「ウサギは元気かって、ハカセが…」
「うるさい!!」
 少女は癇癪を起こしたように怒鳴ると少年を睨みつけ、そしてあれ程大事にしていたウサギを置いて走り去ってしまった。
「かなえ……」
 取り残されたウサギは少年の目から見て、元気があるようには見えなかった。
 いやな予感がした。


 その後、少女は大人たちの代わりといわんばかりにウサギへの執着を強めていった。もう誰も「華叶のウサギ」に触る事はおろか、まともに姿を見る事さえできなくなった。
 時折垣間見えるウサギの姿は、少女が愛情を注いで育てているにもかかわらず、段々小さくなっていくようだった。
 少女は大好きな‘ハカセ’とも話をしようとしなかったし、‘ハカセ’が来るたびにウサギを連れて何処かに隠れてしまって、大人たちの前に姿を現さなくなってしまった。
 そのたびに、少年は少女を探した。
「どうして逃げるのさ。ハカセが来てるのに」
「こないで」
「華叶…」
「おねがいだからこないで」
 少女は濡れた顔で、必死にウサギをなでていた。
「そんなに強くしたら、ウサギが死んじゃうよ」
「死なないもん!!」
「死ぬよ」
「そんな事ないっ!!」
「死ぬよ!」
 一際大きな嘉槻の声に、少女はぎくりと身体を硬直させた。
「―――…」
「死ぬんだって。ウサギはストレスに弱いから、いじめたり、淋しくなると死んじゃうって、ハカセが言ってた。だから…」
 もう自分の代わりにしてはいけない。
 少女はハッとしたように目を見開き、あわててウサギから手を離した。真白いウサギはピョコピョコと危なっかしい足取りで、少女から遠ざかっていった。
 少し前に餌をあげていた様だが、矢張ウサギは元気がない。
 ウサギを追っていた目を、少女にうつして少年は言った。
「どうして何も言わないだよ。ハカセが来てもかくれちゃうし、ウサギがあんなに弱ってるじゃないか」
「……っちゃ…のよ」
「何、かなえ…?」
「いっちゃいけないのっ……!」
 パタパタパタ。
 華叶の瞳から大粒の涙がこぼれた。爪が食い込むほどきつく握りしめた手が、白くなって震えていた。
「どうして?」
「だって、困るじゃない。あの人は忙しいんだから、わたしが何かを言っちゃ、いけないの……!」
 自分が我儘を言えば『彼』が困るだろう事は予想できた。それが判っていて、少女には無理強いなんてできなかった。
 だから少女は逃げる事にした。姿を見せない事で、色々なモノを我慢しようとした。
 自分に罰を与えるように。自分には大切な「ウサギ」がいるのだから、と言い訳をして。
「わたしは、何も言っちゃいけないの」
 故に、自分を傷つけるしかなく、
「――…ミルクがいるもん」
 ‘ウサギ’がストレスのはけ口になる外なかった。
 少女はうつむいて、ウサギを目で追っていた。ウサギはゆっくりと、えさ箱からニンジンを取って食べている。
「だからウサギを棒でつついたりしてたかよ。ウサギは死んじゃうかも知れないのに?」
「ちがう!!」
 少年の言葉に少女は首を振った。「そんなつもりはない」と――。
 つややかな黒髪がバサバサと音を立てて揺れた。
「それでもウサギは死ぬんだって」
 少女は唇をかんで、首を振り続けた。
「――…淋しくて。華叶から愛されないって」
「――いやだぁっ!!」
 今までで、一番大きな声。悲しみを主張する様にふるえる體に少年は瞠目した。驚きすらも、覚えた。
「いやだいやだいやだいやだっっっ!!」
 まるで周囲が見えていない様子で華叶は地団太を踏み、髪をかきむしりめちゃくちゃに腕を振り回した。
「そうしたら、また一人になっちゃう……!」
「華叶っ」
 振り回した手が自身の皮膚を裂き、鮮血が散る。
「一人になっちゃう!!」
「やめて」
「わたしが‘悲しい病’になっちゃう……!!」
 涙でぐちゃぐちゃの顔で叫ぶと、少女は部屋を飛び出していった。
「かなえっ、かなえ!!」


 少女の足音が消えると、少年は大きな音を立ててすぐそばの壁を蹴った。
「クソ……!」
 自分は何て非力なんだろう。
 背中に翼の生えた少女は、消えていった言葉の様に、孤独を吐き出せぬまま死んでゆくのだろうか。
 この小さなウサギに、少女が抱える「孤独」を癒すことができるのだろうか。
 何も知らない様子で遊びまわっているウサギを抱えると、鼻をヒクヒクとさせてすり寄って来た。その愛らしい姿に少年は唇をかみ締めた。
 少女はこのウサギに一体何を――どんな想いを――重ねたのだろう。

 このウサギに、少女の傷を癒す力があったのだろうか。むしろ増長させただけなのではなかっただろうか。
 少年が‘ハカセ’の代わりになれない様に、少女の孤独を知ることができない。
「おまえが悪いわけじゃ、ないんだけどな…」
 少年はウサギを小屋に戻すと部屋を後にした。



 翌朝、ウサギは死んでいた。