「……それが、この国のためであり、貴女のためでもあるんだ」
月夜に、人目を忍ぶように逢う。人の寝静まった時間。
普段は人の訪れることのない、来賓のために作られた一角。
ここで逢うと決めていた。星空の美しい露台。
「それが貴方の出した結論だと云うの」
「ああ」
挑戦的に見上げる瞳。意思の強そうな、けれど脆そうな。腕をつかむ指先にはこれ以上無いくらいに力が込められているというのに。
「ならわたしの気持ちは、どこへ行けばいいの?」
それでも問うことを止めない。声は悲しい程ふるえているのに。
「――ごめん」
パァン……
頬に、熱がはしった。
「…あった」
ちょうど少女の腰の高さの位置に、ちいさな虚が開いている。
そこに小さく丸められた手紙が収められていた。
城の中庭に大きな池がある。一周するのに半刻はかかるその池の、中州に生えるアゼルの古木で、日々手紙は交わされていた。
名前を書き残すことは無いけれど。
「よかった…」
何の飾りも無いその手紙を、胸に抱きしめた。
《こんにちは。最近お手紙を書いていらっしゃらない様ですが、お忙しいのですか?
昨日、とうとう最後のリーリアの花が落ちてしまいました。次に咲くのは五年後だそうです。貴方はご覧になったでしょうか――》
《お久しぶりです。隣国、イル=セラフィタまで手紙を渡しに行っていました。おかげで家を空けていた一月の間に飼っていたミューに逃げられてしまいました。よほど預けていった家が気に入ったのでしょう、何度つれて帰っても朝にはいなくなってしまうので、諦めることにしました。
リーリアは出かける前に一輪だけ見ることができました。……》
「どうして謝られなくてはならないのっ」
瞳は揺れているが、その力強さは変わらない。
頬の痛みは気にならない。きっと彼女の悲しみに比べたら、たいした痛みではない。
「私に一生籠の鳥になれというの」
「……」
「これ以上、わたしに生きるなと云うの」
「――…」
「貴方まで…」
伏せられた睫毛が幽かにふるえている。
「……これは貴女の幸せのためなんだ」
「貴方がそれを云うの」
彼女が絶望的な笑みを浮かべた。
《……数日後に、周辺諸国から使者を招いて夜会が行われるので、今日からイリアネム宮も忙しくなります。夜会には「姫」も参加されるので、衣装合わせや飾り付けなど仕事が沢山で寝る暇もありません。
けれど楽しみだってあるのです。厨房の試作品のお相伴に預かったり、新しいドレスをいただいたり……
でも少しだけ不安です》
《今日、姫君の輿入れが決まりました。先日の夜会でイル=セラフィタの王が姫君をお気に召されたそうです。王は最後まで拒み続けました。ですが……
イル=セラフィタはあまりにも力を持ちすぎた。誰も逆らえないなんて…。逆らう術がないなんて。一体何のためにこれまでやってきたんだ…!! 姫君一人守ることもできない。
姫君と云う一人の犠牲―生贄―の下に存在する国なんて、どれほどの意味があるというのか。
――これは西域九カ国で決めたことです。誰にもとめられない》
人々が仕事の手を休めて昼のお茶を愉しもうと云う時間。男は人目を憚かるように中庭の池の中洲に立っていた。アゼルの古木に開いた虚から、小さく丸められた薄桃色の手紙を取り出す。そして代わりに服の隠しに入れておいた手紙を入れる。
「ここを、この中州を空中庭園と呼んだのは誰だったか」
小さく溜息をついて、元来た道を引き返す。誰にも見られてはならない。そう、これは自分と彼女を結ぶ神聖な儀式なのだから。
「わたしは貴方とでなくては幸せになれない!!」
ふわり。
彼女の体重を受け止める。
「危ないでしょう……!」
地面に向かって投げだされた體。
小さな小さな體。
「貴方のいない世界に、存在する理由などないのよ――」
強気な瞳も。
ふるえる肩も。
涙さえも。
抱きしめてしまえば、こんなに小さい。
世界から消してしまえるのに。
彼女の存在は何よりも大きかった。
「今日も入ってない……」
少女は紺色のドレスを揺らしてため息をついた。それでも、手にしていた手紙を入れることをやめない。
この一週間、一度も返事が来なかった。あの夜会から、何かが変わってしまったようだ。
何がそんなに忙しくさせるというのだろう。
総ては決定されしまったと云うのに。
施政宮、特に男達は雑音を増していた。
《最近、このイリアネム宮にも外のざわめきが聞こえてくるようになりました。
今この国は、どうなっているのでしょうか。やはり戦乱は免れないのでしょうか。騎士である貴方はご存知でしょうか……》
「俺が、貴女に関して何の力も持たないのを知っているでしょう」
きつく抱きしめられる。
貴方の体温が伝わってきて、いつも安心できた。けれど今日は、息苦しいほどに貴方の気持ちが流れ込んでくる。
「でもいや……」
「……アゼル」
それが、たまらなく哀しい。
誰よりも、わたしよりも云いたくて仕方ないのに。
哀しくてたまらないのに。
「わたしをつれて逃げると、嘘でも云ってくれないの?」
「貴女にはいつも、真実しか云いたくないから」
《もしこの国が戦を始めたら、真っ先にわたしを助けに来て欲しい。
わたしを助けるのは、ただ一人貴方でなくてはならないのです。我儘な願いですか。「姫」より「わたし」を取れだなんて――》
「けれど、これだけは君に云える」
舞うような優雅さで彼は儀礼に則り膝を突いた。
誓句を口にする。
「――我が剣と、名にかけて。
道を別たれようと、命果つる時までただ一人姫を愛し、護ることを誓う。
誓句は言霊と、血によりて想いを結ぶものなり」
すっと腰に帯びた剣を抜き、額を斬る。
はらはらと、彼女の頬に水晶が散った。
「こんな儀式めいた誓いに、どれほどの意味があるというの…」
両手で顔を覆い、しゃがみこんで泣き続ける。
まるで空中庭園に咲いた一輪の花のようだった。
「シド……愛してる」
「ん?」
「変わらないわ」
「アゼル・リディエア」
名前を呼ぶ声が優しい。貴方は笑顔しか返してくれなかったけれど。
「返句を聞かせて」
今日もまた、人の少ない時間を選んで中州に向かった、その帰り。
「――隊長!」
同僚であり、唯一この秘密を知るもの。
「ディ・ウティ」
「アクエドからの情報だ。イル=セラフィタが条約を反故にした。西域九カ国に仕掛ける準備をしている。アゼル様の輿入れは、その布石でしかない」
「アゼル……」
「戦だ。シド」
イル=セラフィタ(黒い天使)は、アゼル(神の乙女)を裏切るのだ。今も、昔も。
《アゼル(神の乙女)はイル=セラフィタ(黒い天使)の犠牲になるしかないというのか……
――関係ありませんが、部屋を片付けていたら、去年のアゼルの花の押し花を見つけました。幸せを運ぶと云われています。貴女の上にもアゼルの祝福が降りますように。これを差し上げます》
甘い香りがする。
君の名と同じ、アゼルの花の香り。
この国で、「アゼル」は美と幸福の象徴だった。
この国の、美と幸福を統べる花。
「アゼル」と冠された女性は、必ず幸せになると云うのに。
互いに死ぬるより外ない命なら、何故きみを欲しいと一言云わなかったのだろう。
この夜空に浮かぶ空中庭園で。
何度言葉を交わしただろう。
何度視線を絡めただろう。
何度この腕に抱いただろう。
何度涙を流させただろう。
やがてそれも終わる時がくる。
君のその、瞳の勁さに魅かれた。
アゼルの花が馨る。
年に一度、ごくわずかな期間に花開く。
「アゼル」はこの国の象徴だった。
そしてこの国の総てだった。
わたしはこの名がいやで仕方なかった。運命が、決まってしまっているようで。
だから貴方の言葉が幸せだった。
ただひとつの、「わたし」の証だった。
この夜空に浮かぶ空中庭園で。
何度言葉を交わしただろう。
何度視線を絡めただろう。
何度その胸に抱かれただろう。
何度涙を流しただろう。
やがてそれも終わりがくる。
貴方のことが好きだった…
アゼルは目の前に立つと、額の傷に接吻けた。
彼女を象徴する鮮やかな臙脂のドレスを、羽のように従えて。
そして、接吻ける。
「――我が名と、翼にかけて。
心より、お受けいたします。死が二人を別つまで、貴方を愛し傍に居ることを。
誓句は血と、言霊によりて想いを結ぶものなり」