天龍神話、或いは蛟竜の巫女

 風にのって積乱雲が列をなして流れて行く。つられたように鈍色の雲が重い身体を引きずるように動きだし、さながら葬列のようであった。
 雨は降らない。
 空気は僅かの湿り気も感じさせず、陽は真っ直ぐ突き刺さるように地を灼いていた。
 熱にあぶられ力なく頭を垂れる草が、時折、川の流れのようなすじを作りながらたなびいていた。
 一刻の後、雲は白く緒を引き北の彼方へと過ぎ去り、空はふたたび澄んで、濃く、深い青一色に染まっていた。まるで森の奥深く、人知れず湧く泉の面のようにつるりとした鏡を思わせる空だった。
 女はぐっと唇を噛み締めると、陽光の下へと躍り出た。
 汗が一瞬にして吹き出しこめかみを滴が伝う。拭おうと手を動かせばそれは幻のように消え失せ、熱だけが身体に残り、女の気力を奪った。
 熱に浅くなった呼吸を整えると、今度はきつく前を睨むようにして歩き出した。

 この旬日あまり日照りが続いていた。
 雨が降らないことは今時分別段の不思議もなかったが、此程までに茹だるような暑さと刺すような強い日差しは初めてだった。最後に雨が降ったのがいつだったのかすら、もう思い出せなくなっていた。
 小さいながらも結タッカだった川は次第にその幅を狭め、大人の腰程まであった嵩もいつしか足が浸かればせいぜいと云ったほどのせせらぎになっていた。
 堅く、所々ひび割れる地面を踏みしめ女は森へと向かう。いつもなら草と土の蒸されたような甘く饐えた匂いがするのにそれもなく、生き物の気配もない。
 すべてが死に絶えたようだった。
 手にした水筒にあるのが、飲み水のすべてだった。
 この森の奥、山を背にした処に大きな沼を抱いた社がある。
 水がなくなり困ったときは、社に行って龍神様にお願いすると良い。俄に黒雲が湧き、三日三晩雨が降り続き、その後草木は青々と茂り川は元の水嵩を取り戻すだろう。
 藁をもつかむ想いで女は飛び出した。

 或いは何かに憑かれていたのかも知れなかった。いつ聞いたかも定かではない語り部のしわがれた声を頼みに、こんな森の中へと分け入っているのだ。
 草履はすり切れ堅く乾いた地面を掻く足の爪が割れ、鋭い草葉が體をあちこち切り裂いた。大事に抱えた水も尽きた。このまま社を見つけられなければ己は早晩死ぬだろう。
 汗に濡れて染みる傷口を乱暴に擦り、唾液一滴出てこない口から木枯らしのような息を吐き出しながら歩き続けたその時。
 これまで女を苦しめていた刺すような日差しが突如としてなくなり、代わりに暖かくも冷たくもない、得体の知れない気配に包み込まれた。
 それは鬱蒼とした森の中とは思えない場所だった。先ほどまで女を灼いていた筈の日差しが、木々の隙間を縫って地にさしかかる頃には穏やかな、淡く辺りを輝かせる光になっていた。
 碧、翠、朱、灰、紺。玉虫の様にさまざまな色が絶えず浮かんでは消える水面。光を弾いて金にも変わる沼は思っていたよりも大きく、想像していたよりも神々しいものだった。
 さらにその沼の奥、陽に白く輝く蔭に隠れるようにして社はあった。

 永く人の訪いのなかったであろう社はどこにも朽ちた処がなく、不思議と艶々した甍に白木の美しい姿を保っていた。
 社の傍には女が両腕を廻してもまだ足りぬほどに立派な幹を持つ樹が立ち枯れていた。古木の最後の力であろうか、葉が枯れ落ち白く粉を吹く枝に黄金に輝く時じくの実がひとつ生っていた。
 引き寄せられるようにして時じくの実をもいだ女は肉厚の皮を剥き、八つの房に分かれた果実を口に含み歯を立てた。ぷつりと小気味の良い音がして、刹那果汁が口の中一杯に広がった。
 女は霧中で貪った。水の入った椀を傾けるように果汁は尽きることなく咽喉を潤し、渇きを癒やした。
 渇きが癒えると、干涸らびて黄金色の小さな玉に姿を変えた時じくの実を口に含みこくりと音を立てて呑み込んだ。何故かそうしろと云われた気がしたのだ。
 すると體の奥深くで珠が熱を発したように熱くなり、次第に意識が大気に溶け込み澄み渡るのが判った。
 そうして何かに突き動かされるまま願いを口にした。
「村に雨を降らせて欲しい」
 龍神は現れた。
 玉虫色の沼の揺らめきの合間を縫うように現れ、天を突き破らんばかりに長くとぐろを巻き、白銀に輝く鱗を持ってた。
 語り部の婆が云っていたことは本当だったのだ。女は自らに影を投げかける巨躯を呆然と見上げ、元の通り緑さやぐ田畑や豊かな川の流れを思った。
 俄に雨が降り出した。
 大粒の雨を全身に浴びながら、女は歓喜に打ち震えた。
 早く村に帰らねば。そして渇きと飢えに苦しむ人々に伝えなければ。もう心配は要らないのだと。
 ――龍神様、有難うございます。これであたしたちは生きていかれます。
 感謝の言葉を繰返し繰返し、女は一歩二歩と沼に近づいていった。
 體の真ん中を、何か力強いものに捉えられた。そう感じた時には森と村とを見晴るかす程高い処に女はいた。
 まるで紗が掛かったように白くけぶる雨で遠くまで見通せる筈がないのに、確かに村人たちが家から這い出し全身に雨を浴びて喜ぶさまが見えた。
 こんなに嬉しいことはない。微笑んだ女が手を伸ばし龍神の鼻面を撫でる。
 パタパタと體から熱い滴が降り落ち、次第に沼は女の鮮やかな赤に染まっていった。
 村には三日三晩に渡って雨が降り続いた。
 その後、沼は玉虫色に輝く美しい水面を取り戻し、龍神も新たな守とともに沼の底深く眠りに就いた。