伝言ゲーム

 寝る前に一息つこうとお茶を入れた時、テーブルに置いた携帯電話が普段は流れない音楽を奏でた。
 曲目はG線上のアリア。好きな音楽を設定していた時期もあったけれどどうしても煩わしさが消えなかったので、着信音はクラシックのオルゴールだけと随分前に決めた。何度携帯電話を代えてもこれだけは変わらない。
 音楽は相手によっていくつかの曲から選んで設定している。そしてこの音楽を設定しているのは高校時代の友人グループだった。
 高校時代の友人の多くとは最近ではめったに連絡を取ることはく、年賀状や季節の便りをやり取りするだけになってしまっていた。それが、この時期こんな時間に電話をかけてこようとは。
 何かあったかなと楽しみ半分、なんとも云えない予感半分で名前を確認する。
「あはっ」
 モニタに予想通りの名前が浮かび、わたしは思わず声に出して笑ってしまった。
 やっぱりあの子か。春になると時折どうしてる? なんて電話を呉れるお喋り好きの友人だった。
 携帯が奏でる音楽を心地よく聴きながら、わたしはカップとポットの他に、お菓子と爪の手入れ道具の入ったかごを引き寄せ、ソファに腰を下ろした。
 これは長期戦になる。覚悟をして極低音でDVDを流していざ準備完了、である。
 一分近くも鳴りっぱなしだったのに止む気配のない携帯を手にした。
「――もしもし?」
 久し振りの相手に、柔らかく聴こえるように少し高めの声をだした。
「あ、もしもし、あたしだけど。久し振り、今時間あるかな」
「おー久し振り。大丈夫だよ、元気?」
 相変わらずの相手の声に笑いながら答える。金曜の夜11時なんて、時間ある? でなく、こちらが暇な時間を見計らってかけているだろう事は考えるまでもない。
「元気元気、元気ありすぎて暇をもてあましてるくらいよ。あ、引越ししたんだって?」
「ああ、仕事変えたら実家から通うのがちょっと大変でね、仕方なく」
「一人暮らしかぁ。いいな」
「この歳で一人暮らしも何もないけどね」
「そんなことないよ。場所どこ?」
「んー。実家よりも西寄りのとこ」
「広さは?」
「こっちは結構地価が高いから1DKが精一杯だよ」
「ワンルームじゃないの? 凄いね」
「いやー広くはないのよ。でも料理したくてね。ワンルームのキッチンだと何もできないからさ」
「ふーん」
 凄い勢いで懐に入ってくる。これは迂闊なことを云うと暇にあかせて押しかけてくる可能性が高いな。
「そっちはどうなの?」
「うーん、まあまあ。仕事、忙しいんだよね?」
「そこそこ」
「最近みんな忙しいのか相手にしてくれなくてさぁ、久し振りにあなたのこと思い出したの」
「そうでもしないと思い出さないかよ」
 思わず突っ込む。思い出されて嬉しいやら面倒臭いやら、こういうときこの子の相手をするのは結構骨の折れるので、高校の時もなんやかやでわたしが引き受けていたような気がする。
 ああ面倒臭いなと思った瞬間、用意するのはお茶ではなく酒だったなと思う。
「そんな事ないけど、ブログとか見てるといつも忙しそうなんだもん」
「ああ……」
 友人に誘われて入ったSNSで公開している高校時代の友人向けの日記の事だ。会社の同僚はさることながら大学の友人にもごく一部を除いて知らせていない、わたしにとって今や打ち棄てた船と同じような意味しかもたないもの。それゆえに内容はかなり適当になっていた。
 けして高校時代の友人を軽んじている訳ではないが、当時色々なことが起こりすぎてもはや黒歴史の一部と化してしまっている友人たちに、今の自分を晒すことはなんとなくはばかられるものがあった。
 人生の一時期を親密に過ごした友人たちと久し振りに会うと、会話の内容や精神状態や空気がどうしてもそのころの感覚に戻ってしまう。当時の色々を考えると大人になった今、あの頃の感覚でこの友人たちに近づきたくないというのが正直なところである。
 嫌いというのとは違う、けれど互いに大人の距離で接することができないのでつい及び腰になってしまう。
「やっぱり仕事忙しいの? 休日出勤とかしょっちゅうあったりするの?」
 結果的に日記の内容は当たり障りのない仕事の愚痴が中心だった。
「ううん、ちょっと人間関係でぎくしゃくしやすい環境なんだよね。だからつい愚痴が多めになるの」
「どんなどんな?」
 人間関係、と聞いた瞬間声が弾んだことにわたしはこっそり舌をだす。相手に見えるわけでもないのに、つい隠れてやるところに自分の習慣性を見た。
 向こうの喜ぶ話題をこちらから差し出すなんて、わたしも焼きが廻ったか。
「いや、上司の年が若くてさ、部署内けっこう歳のいった人が多くてちょっと面倒ってだけの話だから……」
 とりあえず面倒のないように内容の修正を図る。ついでに早めに切り上げるために興味のなさそうな方向へも持っていく。
「でも聞きたい」
 マジか。
「本当にあんだが想像するような面白い話はないよ?」
「大丈夫!」
 本当に暇だな、コイツ……。
「はぁ」
 これはもう何をいっても聞きはしないだろう。仕方ないので同期から聞いた話やら微妙に発達した創作能力を駆使して面白おかしい話を仕立てることにした。
 こうなればもう酒の力を借りなきゃやってられない。シャンパンでも開けるか。

「――とまあそんなわけでね」
「あはははははっ、そんなことある訳ないよ!」
 ある日遅刻してきた先輩が営業先に持って行った資料が、自分の子供の動画と趣味で描いている漫画の原稿で相手先の会社でよく判らないプレゼンを展開したのに、なぜか仕事が取れたという話――残念ながら実話であった――に、こちらが引くくらい爆笑する友人の声を聞きながら、咽喉を潤すためにシャンパンのグラスに口をつけた。せめてチーズが欲しい。
 時計代わりに流してるDVDが半分ほど過ぎた頃、グラスをおいて爪やすりに手を伸ばす。
 相手の話を聞きつつ、こちらもあれやこれやあることないこと取り混ぜて、ほろ酔い気分で随分サービスしながら語りつくした。
 本題はそろそろかなぁ、そんな事を考えながらシュッシュッと幽かな音を立てながら爪を整えていく。今夜は嫌でも時間ができてしまったから、普段の自分には考えられないくらい爪の手入れに手間暇がかけられる。
「ねぇ、化粧品なに使ってる?」
「化粧品?」
「そう。あたし最近今まで使ってた化粧水が合わなくなっちゃって、それから中々いい化粧水が見つからないんだよね。やっぱ高い化粧水使わなきゃ駄目かなー」
「あーわたしも肌質が変わったみたいで暫く色々試したよ」
「値段関係あった?」
「多少はあるだろうけど……。それよりあんたアトピー持ってるんだから、ちゃんとしたやつ使わないとどの道駄目だと思うよ」
「そうだね。リキッドファンデでも乾燥が酷いんだよね。じゃあベースメイクは?」
「わたしが殆ど化粧しないの知ってたよね?」
「知ってるけど、会社行くのにメイクするでしょ」
「まあねぇ。――内勤だからBBとプレストパウダーだけ」
「そうなんだ」
「がっつりメイクは必要に迫られたときだけ」
 綺麗に整った爪を光にさらし、おかしなところがないか確認する。ベースコート塗って、乾いたらピンクベージュをベースにピンクのラメでフレンチにしよう。
「それって……」
「法事とか」
 デート、といわれるだろう処を、あんたも訊かれたくないよねと言外に匂わせてさえぎる。
「……。あ、ねえ、職場でね――」
 空気を察したのか職場のお局の愚痴を云い始めた友人の声を、口にくわえたチョココーティングされたスティック菓子を手を使わずに食べながらふんふんと受け流す。
「でも、そのお局があたしにやさしくなったんだ」
「三十になったからじゃないの」
「そうかな」
「仲間入りだね」
「――去年くらいから、同期とか大学の友達がどんどん結婚していくんだよね」
 三十という言葉が引き金になったのか、友人の声はさっきまでと打って変わって低かった。
「そりゃぁね」
 三十を目前にすれば駆け込みで結婚する人は増えるだろう。わたしの周りでもここ一、二年で結婚したり入籍したりした友人が増えた。
 マニキュアを塗ったばかりなので爪に気を使いながら、グラスに入れっぱなしで大分気の抜けたシャンパンを煽る。
 彼女は結婚式に呼ばれるばかりの自分がどれだけ切ないか、ましてや相手が後輩だった日には――とひとしきり語った。ちなみにわたしは明日後輩の結婚式だ。別に悲しくも先を越された悔しさもないが、ご祝儀を上げるばかりなのはちと残念な気がする。
 そして、
「ねえ、あなたは結婚しないの?」
 本日のメインディッシュである。
 わたしは高校時代の友人であった人と、社会人になってから付き合いだした。趣味、というか部活が同じだったため男女の別なくつるんでいた友人の一人である。この友人も当然そのグループにいたので相手のことを知らないはずがなく、『結婚』という連絡もなくいるわたしたちのことが気になったのだろう。
 ――というのはただの建前で、別の友人経由で聞いた話では偶然にも同窓会に参加しなかったわたしたちのことを、彼女は相当あちこちに聞いて廻ったようだった。
「しないよ。てゆうか別れた」
「えっ! マジ? いつ?」
「んー結構前。つーか久し振りに電話かけてきて結局それなの、アンタは」
 彼女の問題点、それはワイドショーのレポーター張りに友人の恋愛関係に踏み込んでくることだ。何処に情報網を抱えているのか知らないが、高校時代から学校内の恋愛がらみの問題は彼女に聞けばわからないことがないくらいだった。
 電話がかかってきた時点で目的は判っていたものの、当たるとそれはそれで虚しい。
「ま、いいじゃない」
「そんな簡単な」
「でもね、連絡取ろうとした男子が連絡つかなくて困ってるんだって。別れた後どうしたのかくらい知ってるんでしょ?」
 敢えて名前を出さずに彼の様子を尋ねてくる。話を聞くにおそらくわたしが唯一彼の消息を知っている人間のようだった。同窓会にも来なかったし、久々に内輪だけで飲み会でもやろうという事なのだろう。
 つまり、わたしに連絡してきたのは結婚云々だけじゃなかった、と。さて、どう答えたものか。
 別れた前後は付き合っていた頃よりも頻繁に連絡を取っていたから知らない訳じゃない。とはいえ本人の了解なく他人のことを人に語るのは、結構気が引けるものだ。
「本当に知りたい?」
 爪を確認して、ベースカラーを塗り重ねる。筆に取る量を間違えて塗り斑をよく作るので、この作業があまり好きではない。けれどフレンチネイルで地爪が透けて見えるのは美しくないので、重ねて塗らないわけには行かない。
「知りたい知りたい」
「あのね」
「うん」
 弾むような声色に筆が横滑りしそうになる。
「修験者になって山篭りしてるって」
「――――、な に そ れ」
「否それが、告白した方から振ったのが許せないんだって」
「は?」
「ほら、あんたは知ってるだろうけど、付き合いだしたきっかけってわたしからじゃない? 付き合ってくれって云っておいて、別れてくれとはどういう了見だ、と」
「はぁ……」
 電話の向こう側で、明らかな困惑が伝わってきて思わず笑いをかみ殺す。
「それで……?」
 恐る恐る、引いてはいけないカードをこれから引かなくてはならない占い師のような、緊張した声で続きを促す。
「うん、振られたことが理解できない、人をやめるって云うから、それだったら神の道にでも行けばって」
「薦めたの!?」
「まさか行くと思わないでしょ」
 あははは、と軽く笑う。
「意味が判らない」
「そうだよね。わたしもそう思う」
「――連絡取ってるんだ、別れたのに」
 何人かの男子が彼と連絡を取ろうとしたが取れていないのだという。結局別れたといっても、現状で彼と連絡が付くのはわたししかいないらしい。
「友達だからね。折角だし勿体無いでしょ」
「何がもったいないの」
「いい人紹介して貰えるかも知れない」
「うあ……。意外と抜かりないね」
「そう? 普通でしょ」
 最近買った、お気に入りのピンクラメを爪の先に施していく。ベースの色とパンチの効いた濃い目のピンクのバランスが、下品にならずいいバランスだ。
 心行くまで眺めてふうふうと爪に息を吹きかける。こんなことでマニキュアが乾くと微塵も思っていないが昔からの癖は中々直らない。速乾性のマニキュアを使ったからくっつかない程度には乾いたが、重ね塗りした内側はまだまだ乾かないだろう。
「それじゃああたしたち四人とも、今の所フリーか」
「あの二人、元気なの?」
「まあまあね、真衣は付き合っちゃ別れちゃを繰り返してとうとう不倫にまで発展したし、雪に至ってはここ数年好きな相手すらできないって」
「楽しそうだね?」
 鼻歌でも聞こえてきそうなぐらい弾んだ声で返ってきたので思わずからかってしまう。こういうことを昔のわたしはしなかったから、発言には気をつけなくてはいけない。
「まぁね。誰かが嫁ぎそうって状況よりはね。懸念だったあなたも独り身みたいだしこんなに楽しいことないよ」
 ……わたし、この子に嫌われてるんだろうか。気を取り直すように新しく注いだシャンパンを一口飲む。

「……別れた女にメールするかね、普通」
「え?」
「さっきの話。別れを切り出されて、理解できないって云っておきながらそれでもまだ連絡取ったりするもん?」
「付き合ってた期間が長いから、別れたとはいっても急にこれまでの生活を変えるのは難しいよ」
 さて、そろそろ頃合か。
「そうか、……そうなのか、うーん。あたしは考えられないけど」
「一般的にはそうかもね。――所で、アンタはどうなのよ」
「何が?」
「結婚。行き遅れには違いなし」
「あっごめん。キャッチ入ったからまた今度ね」
 ブツッ、ツーツーツーと信号音が聞こえてきそうな古典的な技で強引に通話が断ち切られた。
 お約束というかなんというか、自分の都合の悪いところではとても引きのいい友人に呆れを通り越して関心すらする。どうすれば此処まで勘よく動けるものか。
「ふぅ」
 溜息を吐いてテレビに視線を送る。再生されていたDVDは終わり、代わりに深夜バラエティが流れている。
 時間は一時を少し廻ったところ。中々上出来ではないか。
「相変わらずだわ」
 シャンパンを一息に飲み干すと、なんとも云えない気分で真っ白の天井を見上げる。

 通話中に塗ったトップコートがあらかた乾いたところで改めて携帯電話を手にし、メール画面をよびだすとぽちぽちと文字を打ち始めた。
「送信、と」
「終わった?」
 背後からかかった声に振り返ると微笑んで頷く。
「ご苦労様」

* * *

「あーあ」
 動揺しすぎてキャッチ入ったなどと、つい現在では考えられないような手法で通話を切ってしまった。畳んだ携帯をテーブルに無造作において背伸びをする。身体が固まっていて背骨が小気味いい音を立てる。
 もう二年ほど使ったメタリックで濃いピンクが気に入って買った携帯電話は、煌めく石をポイントに飾っている。
 予想以上に有意義な時間だった。まさかあの子が別れていたなんて。
 四人の中では真っ先に「結婚しました」なんて書かれた年賀はがきが送られてくると思っていたのに、それがとっくに別れていて相手もいないだなんて。次にみんなにあった時には必ず云わなくちゃ。
 時計を見ると一時を少し廻っていた。思ったよりも話し込んでしまったようだ。
 さて今日はもう寝ようかと、風呂に入って戻ってくると携帯の着信ランプがついている。
 今度は誰の噂話だろう、好奇心にかられて無防備に携帯を開く。
「あれ」
 ついさっき不可解な別れ話を聞いたばかりの友人の名前。
 自分の結婚ネタを追求するつもりだろうか、お主も悪よのう。さて、何といってごまかそうかと考えながらメールを開く。


『―――て云う話があったらさ、信じる?』

 お気に入りだった携帯が翌日最新機種のスマホに変わったことはは云うまでもない。

fin