夢見草の子供達

「あたし、お迎えが来たの」
 初めて逢った頃よりも短く整えられた少女の髪が、肩口で涼しげに揺れた。窓から差し込む光が漆のような深い色の髪に溶け込んで、甘く輝いた。
 千里香はまるでこちらの返事をお見通しだというような表情で、その言葉の意味を理解して目を見開く白妙を見つめた。
「あなたも?」
「そう。花が散ったら、ドレスを脱ぐの」
 まるでお飯事みたい、とは口に出さなかった。
 今年は一体何人が衣を改めるのだろうか。ここ数年で最も多いのではないかと頭の中で人数を数え、千里香に気づかれぬように溜息を吐いた。
 よく見れば、テーブルの上で組まれた手には銀のリボンが眩しい光を放っていた。まだ幼さの残る顔にも、大人びた表情があった。全てが冬にはなかった丸さを帯びていたのに。
 感じていた違和感は間違いではなかったというのに、何故気づかなかったのかと鈍い自分に腹が立った。
「……おめでとう」
「有難う。どうしても一番に白妙に伝えたかったんだ」
「うん」
「白妙は、このドレスを脱がないの?」
 未来を信じて疑わない、無邪気な確信に満ちた言葉。
「さあ……、どうだろう」
「白妙なら屹度似合うよ」
「――…うん」
 彼女以上に大人になってしまった自分を哀れんで、白妙は笑顔を浮かべた。

 冬が過ぎて、また新しい春が来る。
 芽吹いた木の芽の、咲いた花の、数だけ見送ってきた。
 外見だけでなく、精神的にも幼かった千里香はもう少し先だろうと、白妙は勝手に思っていた。
 黒い薔薇のボタンと白いカフスと赤いリボンタイで飾られた黒いドレスの裾を翻し、二つに分けたお下げが揺れれる様が可愛らしくて、遠くから何度も千里香を呼ばわった。
 まるで子犬の様に駆けて来る千里香をからかって、背中のお下げを軽く引っ張って怒らせたこともあった。
 たまに寝坊してやってきた彼女の髪をお下げに結った事もあった。
 それらの出来事を、つい最近の事として白妙は記憶していた、筈だった。
「千里香も行くんだ……」
 芝生に直に座り込んだ白妙は、ぼんやりと自分たちが暮らす屋敷を眺めた。
 見渡す限り続く緑の平原に、白壁を持つ焦げ茶の木造の建物が佇んでいる。違う場所に目を向ければ虹色に輝く温室。いずれとりどりに咲き乱れるであろう沢山の花の固い蕾が風に揺れている。
 この丘からは彼女たちが生活する場所が一望できる、二人のお気に入りの場所だった。

 気がつけば白妙の髪は肩をとっくに通り過ぎ、腰に届きそうな程に伸びていた。
 少し波打つ栗色の髪は、黒いドレスによく映えるので白妙は気に入っていた。けれど長い間、千里香の様にお下げ髪にする事はなかった。
 鋏を入れず、リボンで飾りもせずただ伸びるままに背中に垂らしていた。艶やかな飴色の光を放つ髪を、千里香はことあるごとに羨ましがったものだ。硬くこしのある髪は手入れが大変だ、と。
 お下げ髪は少女の証、そういったのは誰だったか。今なら思い出せるような気がして、白妙は瞳を閉じて思考を停止させた。
「―――……」
 言葉にならない言葉。ただ息だけを吐き出して、立てた膝に顔を埋めた。肩から落ちた髪が一房頬をくすぐる、懐かしい感触、溢れかえりそうな沢山の記憶。
 黒は喪を表すのだ。
 こんな年端もゆかぬ少女達が集う場所で、一体何を弔うというのか。
 沢山の命を、世界を、弔う。
 多分、ここにいる少女の誰より白妙は多くの事を知っている。
 自分は、誰を、弔う?
「知らない……」
 追いかける影を、待つ影を、白妙は知っていた気がする。迎えに来るべきモノ、も。
 でもそれは知らなくていい。胸がざわつくから、屹度忘れるべきなのだ。
 見上げた空は何処までも蒼く、白い雲がたなびいていて、この空の向こうに自分の未来もある筈なのだから。

「矢張りここに居た」
 白妙、と息を切らしながら千里香が駆け寄ってきた。ドレスの裾から、ふわりといつもの花の香りが漂った。
「さがしたんだから」
「ちょっと、考え事をね」
「あー、いっぱい走ったから苦しいや。隣、座ってもいい?」
「どうぞ」
 答える前に白妙の隣にハンカチをひいて、千里香がやれやれと呟きながら腰を下ろす気配がした。
 返事を聞く前に身体が動くのは、千里香の悪い癖だ。
「いい眺めだね」
 視界の端に同じ様に膝を抱えて座る少女の姿を捉えながら、白妙は真直ぐ前を――遠く青と緑が消失する先を見ていた。
「そうね」
「この景色ももう見納めか」
 春一番に咲く花が散る頃、千里香を含めた多くの少女がここを出て行くだろう。
 また今年も、白妙は見送るのだ。喜びと苛立ちがない交ぜになった感情を抱いたまま。
「――本当はね、ちょっと不安だったの」
 溜息の様に、普段より幾分か低い声で吐き出された言葉。
「………!」
「ドレスを脱ぐのは嬉しいけど、この景色が見られないのはちょっと残念だな」
「ちり……」
 立ち上がる気配。白妙は弾かれたように顔を上げるが、そこには先程聞いた声のような陰りはなく、いつも通りの千里香がいた。
「また会おうね、白妙」
 眩しいまでの笑顔で、千里香は云った。
「白妙がここを出たら、一番にあたしに知らせてね」
「――…うん」
 千里香の髪はもうお下げではなくなった。
 けれどここには、この場所を離れることを惜しむ少女の姿もあって、それはどちらも白妙の知っている『千里香』だった。そしてそれは、変わらない物もあるのだということを示していた。
 唐突に、気付いてしまったのだ、知りたくもなかった事に、自分は。でも、ならば、だったら、哀しくはないのかも知れない。
 だから屹度、失ったかも知れない白妙の未来も、何処か遠くに存在している。
「いつか……」
 ここを出て大人になった二人が、出逢う未来があるかも知れない。
 ぶちぶちと傍らの下草を引き抜き立ち上がると、白妙は握り締めていた手を開いた。引き抜かれた草はまるで川を流れ行く魚のように、青々とした匂いだけを残し緑の尾を引いて吹く風に乗って流れて行った。
 白妙は自分と同じように下草をぼうっと眺める千里香の手を強く引いた。バランスを崩してよろける彼女の髪が、ぱさりと音を立てて翻った。
 こちらを向く紅い果実のような唇が怒り出す前に、唇を寄せた。
「――っ、し…」
「約束、ね」
「白妙……?」
 訝るように首をかしげた千里香に、白妙は微笑んだ。
「千里香の幸せを祈ってる」
「あたしも、白妙の未来を希ってる」
 二人は鏡合わせに向かい合い指を絡める様に両手を繋ぎ、誓いを立てるように瞳を閉じると額と額を寄せ口を開いた。メゾソプラノとアルトの声が見事に重なり、一つの言葉を紡いだ。

「またね」

fin
BGM : [Shangri-La] angela