[ 黎 明 ]

 薄暗い部屋に、蹲るようにして倒れている女。
 つま先には茶色い薬瓶が転がり、空いた口からは真白い錠剤が数錠零れだしている。
 薬を飲んだ時にこぼれた水が筋を作って滴り落ちる口の端を拭うことなく、視線は虚ろに虚空を彷徨っていた。
「――…どうしよう」
 カーテン越しに見る空はうっすらと白み始め、夜の終わりを告げようとしている。
「朝が、来る……」
 そろそろ終わりにしなくてはならない。朝が来れば自分はまた普段通りに身支度を整え、普段通りの時間に家を出て、普段通りに仕事をこなすことだろう。
 そうしてまた、普段通りにこの部屋の扉を開け、空っぽになった事を思い出して絶望するのだろう。
 ――空っぽ。
 そう。身体の中は空っぽで、まるで木の洞のようだと自分でも思う。
 彼のいなくなったこの部屋は、廃墟と同じ。何の意味もない。
 それなのに自分は惨めたらしく今夜もこの部屋の扉を自分で開け、主のいなくなった部屋の真ん中で彼の幻を見る。
 それがどれ程無益で愚かしい事かは判っている積りだ。
 でも、未だ彼の残り香の漂うこの部屋を諦めることなどできそうになかった。

「――いつまでそうしているつもりだ」
 ガチャリとノブが回る音がして、血と雨の匂いを纏った男の低い声が響く。
「気が済むまで、よ」
 億劫そうに起き上がると上の空で答える。
 ――この男も、一体いつまででそう云い続けるつもりなのだろう。
「だがもうそれもお仕舞いだ。お姫さん」
「その呼び方をしないで――!」
 鋭い声で叫ぶ。

 “お姫さん――”

 愛しい声が鮮やかによみがえる。彼はそう云って、抱きしめてくれた。
「わぁるかったよ。――だがそろそろ、この部屋を引き払いたいんだがな」
 彼がいなくなって一年。
 主のいない部屋に、いつまでも出入りしている訳にはいかない。どこから足がつくか分からないのだから。
 男は近くにあった椅子を引き寄せて座ると、懐から煙草を取り出して火を点けずに口に銜えた。
 自分に遠慮してのことだろう、その心遣いが有難かった。この男――同僚だが――の無粋な煙草の煙で、彼の匂いが消されてしまう事が赦せそうになかったから。
「解ってるわ」
 男の視線から逃れるように顔を背ける。するとそれを咎めるように彼の写真が目に入った。
 さらに顔を背けると、数時間前に飲んだ薬の瓶が転がっているのが見えた。
 遣り切れなさにグシャっと髪をかき混ぜる。末期的だ。
「――今時、睡眠薬じゃ死ねねぇぞ」
 男が呟く。
「わかってる!!」
 云われなくても解っていた。こんなものはただの気休めの「自殺ごっこ」に過ぎないことなど。
 ――否、「ごっこ遊び」以下だ。これは。
 滲んだ涙を隠すように、立てた膝に頬を埋める。何度も何度も飲みすぎて、睡眠薬など効かなくなっていた。
 眠れもしなければ彼の元へも行けやしない。
 そんな中途半端にまどろみだけが訪れる睡眠薬を飲み、夜ごと彼の幻と戯れた。
 ただそれだけが、自分にできることだと信じていた。


「――そろそろ朝だ」
 男は火の点いていない、長時間銜え続けてくしゃくしゃになった煙草を銜えたまま云った。
 奇妙なまでに響く声が、まるで死刑宣告のように思えた。
「ええ………」
 決着を着けなくてはならない。
「悪いんだけど、私の銃を取ってくれる?」
「……お前、悪いと思ってねえだろ」
 手を差し出す。男はすぐ脇のテーブルに置いた銃を一瞥すると、自分の銃を取り出し構えた。
「無防備だな」
「何の真似よ」
 鈍く光る闇色のフォルム。
 男の静かな殺気を一身に浴びて、笑った。なんと心地よいのだろう。
「俺が送ってやるよ」
 全身から放つ殺気はそのままに、瞳だけは泉のように凪いでいた。
「………」
「一人で逝くよりはましだろ」
「…………!」
「お前の考える事くらい判るさ。なんせなげぇ付き合いだからな」
 男はカラカラと笑う。
「逢いたいんだろ? アイツに」

 “―――。”

 彼が、名前を呼ぶ声が聴こえた。
「あ―――…」
 はらはらと珠を結んでは涙が零れた。
 言葉にならない想いが、氷解するように。
「なんだよ。お前、解ってなかったんだな」
「だって……」
「ま、仕方ねぇか。お前はこの世界にどっぷり浸かって生きてきたんだもんな」
 自分の感情なんかそう簡単に理解できるもんじゃねぇよな。
 男はぼやくように呟くと、鼻を鳴らして笑った。
「やっぱ男親はよくねぇな」
「親子じゃない……」
 こんなよく分からない理由のために、男に銃を使わせてはいけない。そう思っていた。
 けれどこの想いを託せるのも理解してくれるのも、この男だけである事も知っていた。
「泣くなって。今まで何人も殺して来たんだ。今更一人増えたってどってことねーよ」
 理由なんて何もない。
 もう一度彼に逢いたい。その想いが胸から溢れ出してくる様だった。
 その事に、今の今まで気付かないなんて。
「――っ彼に、あいたい…」
 男の言葉で気がついた。自分が単に、彼が死を悲しんでいるのではないと云う事に。彼の死が問題なのではないのだと云う事に。
 声に出せばより一層想いが強くなる。
 ただもう一度、彼に逢いたい。
 それだけなのだ。
「ああ、解ってるよ」
「―――…っく」
「だから俺が送ってやるっつってんだよ。――ま、俺がやるから、お前をちゃんとアイツの処まで送り届けてやれるか判らねぇけどな」
 男の声はどこまでも優しい。
 この男の手にかかることができる自分が幸せなように思えて、嬉しくもあり申し訳なくもあった。
「こんな人生だもの、貴方が天使でも死神でも、たどり着ける場所なんて最初から決まってる」
 彼は天国に自分は地獄に行くだろう。
 自分はそれだけのことをやってきた。
「いーや、それでもお前はアイツの処に行ける」
「そうね」
 瞳を閉じる。視界を埋める闇。これでもう二度と朝は来ない。
 悲しい朝を、迎えなくて済む。
「――行って来い。そして幸せになれ」
 互いに総てから目を逸らして、まるで旅立ちの朝の様に言葉を交わす。
 でもこれでいい。
 最期は笑顔と、決めていた。
「行って来ます…―――」



 ズガ――――ン……