ラプンツェル症候群

「ねえ、いつまでこうしていればいいの?」
 少女の身体のまわりを這う、長く太い鎖。光を浴びて蛇の鱗のようにぬるりとした銀に輝いて部屋をぐるりと一周し、少女の白く細い足首に絡み付いてる。
 少女はその鎖を持ち上げると、睛を悲しげな色に染め男を見上げた。
「一体どれだけの間、こんなことをしていると思ってるの?」
「明日は服を買いに行こう」
 男は満面の笑顔で少女を見下ろす。少女の表情などまったく意に介した風もなく、男は少女に似合いそうな色やデザインについて滔々と話し、折角だからと買い物の後にどこかへ行こうと楽しげに語っていた。
 少女は悲しげに顔をゆがめ、服など必要ないと首を振った。
「服がなくては困るだろう」
「家に帰ればあるから」
「もうあの場所はない筈だ」
 男の云うことは正しい。おばあさんは半年前に死んでしまったのだから。
「――お願い、お家に帰して」
「何を云ってる。俺たちの生活はこれからじゃないか」
「戻って来るから……必ず」
「駄目だ」
 男は無情にも首を振り、少女の表情は絶望に染まる。
「お前は嘘を吐いた」
「帰りたいのよっ!!」
 ダンッと大きな音を立てて少女は壁を叩き始めた。
 近くにある物を手当たり次第に放り投げ、部屋中の物を壊す。
「帰りたい、帰りたい・カエりたいかえりたい・カエリタイ…カエリタイ………っ!!!」
 長い髪を振り乱し、狂ったように泣き叫ぶ少女を、男は全く意に介さぬ様子で見つめていた。
 窓が割れ、硝子が砕け、壁がへこみ、棚が歪む。
「――かえして……かえりたいの………」
 泣きじゃくる少女に感情の見えぬ表情で溜息を吐き、仕方ないと呟くと男は立ち上がり少女の足に絡まる鎖を外した。
 びくりと、少女の肩が跳ねる。
 これは駄目だ、これは駄目。少女の中で警鐘がなる。
 何度となく繰り返された出来事に、男の空気に危険を読み取った少女が立ち上がり、野兎の素早さで部屋を飛び出す。
 隠れなきゃ、どこかに隠れてしまわなければ、またあの部屋に連れ戻されてしまう。
 古い屋敷の廊下を走り、角を見つけては曲がり、たどり着いた扉を開けて部屋に這入ると大きな家具の裏に身体を押し込んだ。長く使われていない様子の物置のような部屋は幽かに黴の臭いと埃が漂い、2,3度息を吸っただけで咽喉が痛み咳が出そうになった。けれど両手で口を押さえ、からからに乾いた咽喉に無理やり唾液を流し込み、必死で咳き込もうとする肺をなだめた。
 目を瞑りただ来ないでと、男が自分を見つけない事だけを祈っていた。
 けれど、

「ここがお前の家だといったはずだ」
「………やっ」
 少女にとってとても長く感じられた祈りの時間は終わり、見上げるとそこに男がいた。
 男は小さな悲鳴を上げる少女をの身体を家具の挟間から掬い上げると力の限り暴れる手足を難なく躱して肩に担ぎ上げ、埃っぽい物置部屋を出た。
 何世代にも渡ってワックスを使い丹念に磨き上げられた年代物の長い廊下は飴色に鈍く輝き、少女の分の体重を加算した普段よりも身体の重い男が歩くたびに、幽かにギシリギシリと軋んだ音を立てた。
 まるでこの男の、歪んだ精神を表しているように感ぜられ、少女はふるりと震えた。
 お願い、やめて、云うことを聞くから、貴方の事を愛するから、あの部屋だけはいや、やめて。どれ程懇願しようと、男の歓ぶことをささやこうと男の首は縦に振られることはなく。
 黒く大きな扉の前で立ち止まると、少女の力では開けること叶わない重いノブに手をかけ押し開けた。
 と、まるで木の洞のように真っ暗な部屋がぽっかりと口をあけ、荷物か何かを扱うようにぞんざいに少女を部屋へと放り込んだ。
「いやだ……」
「駄目だ」
「いや…いやっ……」
 少女は何度もかぶりを振って男の足に縋りついた。今ここで扉を閉ざされてしまえば、またあの孤独な日々が待っている。
「ごめんなさいもうしないから――!」
「駄目だ。お前は今まで一体何度そう云った?」
「もう二度としないから。だから――」
 無慈悲な男はまるで儚い月のような淡い笑みを浮かべ、少女の長い髪を手に取ると、すっと唇を寄せた。
「だから……」
「大分伸びたな」
「―――……」
「気をつけて座らないと、踏みつけて痛いだろう」
 そう云うと男はおもむろに少女の髪をいじりはじめた。鼻歌交じりに、これ以上楽しいことはないといった風情でどこから取り出したのか櫛で梳き、艶の増した黒髪を器用に編んでいく。
 少女の瞳が輝く。まるで今血が通いだした人形であるかのように頬に赤みがさす。
 今なら、男が自分の話を怒らずに聞いてくれるかも知れない。
「云われたとおり、切ってないわ」
「そうか、偉いな」
「長い黒髪が、好きなのよね」
「ああ、今まで何人もの髪を触ってきたが、お前ほど豊かで美しく黒髪の似合う女はいなかった」
「わたしも、貴方に髪を触られる時が一番好きなの」
「そうか」
 編み上げられた髪の端を天鵞絨の紐で束ね、リボンを整える長い指を見ながら少女は躊躇いがちに口をひらいた。
「ねえ」
「何だ」
「――ここから、出してくれる?」
 少女は上目遣いに男を見上げる。
 その甘えたような声音に男は目元を和ませ、ふっくらとした丸みを帯びる頬をいとおしげに撫でた。
「――いいや」
 きっぱりとした声に、少女の顔からさっと血の気が引く。まるで熟れたさくらんぼの様だった唇が見る見る紫色に変わり、絶望にわなないた。
 まるで眠りから覚めるのを待つ御伽噺の姫君のような血の気の引いた唇に、男は軽く接吻を落とすと立ち上がった。
「愛しているよ、―――」


 バタン


「いやっ……! だして、おねが……ね………や、ぃや――!」
「判っているだろう?」
 少女の叫びがまだ聞こえるが、男は構わず黒く重い扉を閉ざした。
 男は先程と寸分違わぬ笑みを浮かべたまま、鍵穴に金の古風な形の鍵を差し込む。
 カチャリと錠の下りる音がして、男は満足げに扉を撫でた。
 高い塔に閉ざされた姫君は、屹度、王子が声をかけるのを待っている。
「これはお仕置きだ、俺のラプンツェル」