ラプンツェルの誘惑

「これはお仕置きだ、俺のラプンツェル」
 内緒話でもする様に男は少女の小さな耳朶に唇を寄せ、残酷な言葉を紡ぐ。
 ずっと聴いていたいと願う甘く低い声音が身体の芯を震わす様に響く。魅力的な声が、何と冷たい事を云うのだろう。
 それ故に、恐怖もいや増した。
「いやっ……! おねがい、お願いよ……許して―――」
 限界まで涙の溜まった睛をいっぱいに見開き、扉を鎖すことだけはやめてと懇願する。
「このへやはいやなの……」

 キィ――、………パタン

 懇願する声も空しく、黒曜石のような漆黒の扉が重い音を立てて閉まる。
 後には幽かに鍵の閉まる音。
 少女は力の限り扉を叩くが、硬く分厚い扉は少女の非力な力では叩く音を外に響かせることも敵わず、外からは何の反応もないままだった。
 つるりとした扉に耳を寄せ、じっと廊下の音を探る。
 努力むなしく男の気配が去ったのを確認すると、少女は溜息を吐いて室内に視線を向けた。その表情は先程までの今にも泣き出しそうな顔ではなく、感情の読み取る事のできない人形のような面。
 黄昏時を過ぎた世界は闇に沈み、部屋を照らすのは満月の淡い光だけだった。
 ワインレッドのカーペットの上に華奢なソファとテーブル、天蓋付のベッド。窓には複雑な模様を描くレースのカーテンが下がり、真紅の薔薇が一輪、触れれば壊れてしまいそうな繊細な細工の施された花瓶に活けられていた。
 装飾らしい装飾は一切ない。それでもこの部屋は紛れもなく、高貴な者の住まうに相応しい「姫君の部屋」だった。
 少女のための部屋。
 少女――ラプンツェルを閉じ込めるためだけに作られた、檻。
「…………」
 男は今、どうしているだろうか。
 毎朝目覚める前に新しい花と交換されている薔薇を花瓶から抜き、滴る水を気にした風もなく花弁に口付ける。幽かに表情を緩めるとけぶる霧のようなレースを開け放ち、青い光を放つ月を見上げた。
 この世のありとあらゆる美しいもので作られたかのような男。
 端整な顔立ちも、彫刻のような身体つきも、少女の心を絡めとる視線も、声も、長い指も全部。
 愛してやまないただ一人の男。
 これは儀式なのだ。自分と男とを繋ぎとめる、唯一の。
 少女は窓辺から立ち去ると、毛足の長いカーペットの上に直に座り込み扉に身体をもたせ掛けた。扉は冷たく、肌がひやりと粟立ったが、それもじき少女の体温と溶けて気にならなくなった。
 瞳を閉じ、扉の向こうに意識を馳せる。
 男の立ち去った廊下からは何の音も聞こえなかった。
 まるでこの世から誰もいなくなってしまったかのような静寂。
 この静寂は自分だけではなく、この家のどこかにいるであろう男をも、支配しているのだ。
 男の不安が伝わってくるようだ。
「あぁ……」
 甘い吐息が零れる。
 沢山の男と浮名を流し、多くの悲しみを背負い、それでもまだ男を愛してやまない成熟した女の婀娜めいた吐息に似たそれ。
 知らず口元には笑みが浮かび、人差し指で唇に触れた。
 世界の輪郭を青白く浮かび上がらせる月光は、少女のまだ蕾を思わせる未成熟な體の輪郭をも淡く照らし出し、丸でこの世のものとは思えぬ艶に濡れていた。
 綺麗に整えられた桜貝のような爪の乗った手がひらめいて、服の上から身体のあちらこちらを辿っていく。
 各部に問題がないか確認するように、未だ幼い場所を確かめるように。
 衣擦れとともに月光で染まった少女の體が蠢いて、ワインレッドの床に影を落とす。
 罪悪感に、苦しむといい。
 自らの歪んだ性根故に、愛した者を高い塔に押し籠め、逃れられぬようにすることでしか愛を表せなかった御伽噺の哀れな老婆のように。しかし、否定することもできずに美しさのあまり世界の目に触れるを嫌い、結局閉じ籠め続けて視力を失った王子のように。
 この出口のない小さな「城」の中で、ままごとのように外界との接触を極端に減らして生きるわたしたち。
 その醜悪さと、毒の甘さに苦しむといい。
「ねぇ……」
 少女はまるで口付けをねだる乙女のような仕種で、右腕を窓から覗く月に向かって差し出した。左手は胸元で硬く握られている。
 それは劇の一場面のように。指の先から投げ出された脚の先まで、総てが蠱惑的な光を帯びていた。
 自らの行いに嫌悪し、悔い、蔑め。
 それでも、そうせずに居れない自身の心のありように絶望し、苦悩し。
 そうして。
「早く迎えに来て? ――…」
 血のように紅い唇が愉しげに言葉を紡ぐ。
 申し訳ないと、もうこんなことはしないと泣いて謝り、許しを請うがいい。
 それでも愛していると、わたしの貴方への愛も、貴方のわたしへの愛も変わりはしないのだと、女神の鷹揚さで毒を注ぎ込んであげるから。
「――私の“王子様”?」
 この甘美な罪に溺れるがいい――。


「うふふ……」


 貴方は私だけのもの。