姫 事
―――俺はあの瞬間の母を一生怨むかも知れない。
その時の記憶はない。
ただ、衝撃だった。
彼女が何に怯えていたのか。
何を思い生きていたのか。
その時になってやっと理解できた。
あの泉のように澄んだまっすぐな瞳が、すべてだった。
彼女は何も持っていなかった。
そのことに、怯えていた。
玄歌は要を森の奥にある神社に連れたきた。
「鎮守様?」
「そう」
鎮守様はこの村の守り神。鎮守の社。御神体は小さな泉で、この水を飲めば怪我や病気が治ると云われている。
昔は泉から村まで川が伸び、その水を生活用水として使っていたらしいが今では枯れて、神社に近付く人も少ない。社も永く人の手が入っておらず、朽ち果てていた。
誰もが忘れたこの場所を、以来二人は逢瀬の場所と決めた。
「―――なぜここにいる?」
「ここでこうやって、何もしないで一日中泉を眺めるの」
「そんなことして楽しいか?」
要は顔をしかめた。ともすれば昼でも薄暗い森の中の、しかも寂れた神社で年頃の少女が日がな一日一人で過ごすなど、危険極まりない。
「たまには本も読むよ」
「……そうじゃなくて。危ないだろ」
「先生みたいなこと云わないで」
「俺は教師だ」
「――――…。そうだった」
玄歌はからかうように笑った。
「生徒に手を出す、ね」
皮肉っぽい言動。普段よりすさんで見える表情。
玄歌に何があったのだろう。要は玄歌の、従妹であるという以外のことを殆ど知らなかった。
「…………」
「……家にいるよりずっといいの」
少女はこちらを見ようとしない。
「―――…」
要は幽かに口を開いて、すぐに閉じた。
「ご飯も食べたことがあるよ」
「だから――」
「ここは泉があって、木があって、ぼろぼろだけどお社がある。自然に抱きしめられているようで気持ちがいいの」
少女は財布から五円硬貨をふたつ取り出すと、ひとつを要に手渡し、もうひとつを賽銭箱に向かって放った。
ぱんぱんと手を打つ音が、思いのほか響いた。
「……こうして、ここの神様にお邪魔しますって挨拶するの。ついでに今日一日危険からお守りくださいってね」
「そこまでして、ここにいたいのか」
「要もしてね、神様に挨拶。
……森は静かだよね。私をお父さんから隠してくれる。嫌なものすべてから守ってくれる。実は夜明かししたこともあるの」
「何でそんなに危ないことをするんだ?」
「………」
「何で俺を心配させるようなことばかりするんだ?」
肩をつかむ力がいつもより強い。幽かに痛みを感じて、少女は顔を歪めた。
「……いたい」
要は睨むように玄歌を見つめた。少女の抗議の声を、彼は無視した。
「俺がお前のことを心配するのは、玄歌にとって意味のないことなのか?」
「――それは、先生として?」
「―――!」
「従兄妹として、恋人として。……一体どれ?」
「…………」
首を振る。どの立場であるとは云えなかった。すべての立場であって、そのどれでもない。要はただ、要として、玄歌を心配していた。
「そう……」
少女は淋しそうにそうつぶやいた。
「玄歌……?」
「要は幸せなのよ」
接吻ける。
玄歌の笑顔は、何よりも綺麗だった。
蝉時雨に気が狂いそうな夏の森。
二人は何も変わることなく、逢瀬を重ねていた。
玄歌はどんどん綺麗になってゆき、触れるのを躊躇われるほどだった。
それに比例するように増える痣。
でも少女が要の家に助けを求めに来ることはなかった。
その理由を、要は今では推測できた。
その日、何十日ぶりかで朝から曇り空だった。
「――要が、私をここに呼んでくれるとは思わなかった」
「それでも大切な場所だからな」
二人だけの、約束の場所。
ぽつぽつと蓮の咲く泉。
朱い鳥居が、今日はやけに大きく見えた。
「話って何?」
「?」
「ここでしかできない話なんでしょう?」
玄歌が要を捉えた。あの深い、澄んだ泉のような眼差し。
知らず、背中を冷たい汗が伝った。
「――…この関係を、もう止さないか」
「私のこと、嫌いになった?」
「そうじゃない。――知ってしまったんだ。玄歌が知らない、俺たちの秘密を」
少女の瞳が悲しげに揺れるのを見つめながら、要は喉が鳴るほど勢いこんで唾を嚥下した。これから自分はとても恐ろしい話をしなければならない。
「なに……?」
拳をぐっと握り締める。もしかしたら、爪が皮膚を裂いているかもしれない。それ程強く握り締めていた。
思い切り息を吸い込む。
そして……
「俺たち、兄妹なんだ―――」
母――今では養母だが――から聞かされた言葉を口にする。
「兄妹?」
「父親は違うけど、母親が同じだそうだ……!」
なぜいまさら知ってしまったのだろう。それならもっと早く、出逢う前に知っておきたかった。
そうすれば、二人ともこんな苦痛を味わわなくて済んだのに。
玄歌は、意味が判らない、と云った風に首をかしげた。
それはそうだろう。従兄妹だと思い、信じて結ばれた。その自分たちが、父親こそ違えども血を分けた兄妹だったなんて。
雨雲がかぶさるように空を覆った森は、午なのに夕闇のように暗い。かろうじて差す薄日が、少女を白く浮かび上がらせていた。
「そう……」
玄歌の朱い唇が言葉を紡ぐ。
「知ってる」
「―――?」
「知っていて、要に恋をした。知っていて、貴方と體を重ねたの」
彼女の眼差しは、まるでこの泉のように静かだった。
「……な…ん―――」
「私は要のことが好き。誰よりも好き」
朱い唇が、まるで違う生き物のように動いている。
「――要の総てが欲しかったの」
「………何で」
玄歌の手が伸びてきて、要の顔に触れた。
「要は私の『お兄ちゃん』だから。――私のことを愛してくれるのは、要しかいないの」
頬に、唇に、だんだんと手は下に降りていく。
首、肩、腕――そして胸にたどり着く。
「…………何す――」
シャツの釦をひとつ、ふたつと外す。
「し……?」
少女の接吻け。
それは夢への誘いだった。
こんな時でさえ玄歌の體は、翼のように軽く、しなやかで、えも云えぬ甘さを秘めていた。
「……っ……ゃ…」
幽かに汗ばんだ肌に吸いつき、朱い花を散らす。
まるで刻印のようだ。
でも一体、何の証だろう。
「―――ぁ…ん……」
少女の声が耳に心地よい。
もっと声を聞きたくて、軽く歯を立てる。
「やっ………」
両腕で背中にしがみついてくる。その仕草がいとおしい。
紅潮した頬も、波打つ黒髪も、果実のような唇も。みんなみんな、いとおしくてならない。
喩え兄妹だと知っても、その気持ちをすぐにどうにかできるはずがない。
いずれは肉親の情に変わるかもしれない。……変えなければならない。
けれど今は、男としての自分が少女を求めていた。
玄歌の瞳に映る自分を見つめる。
「――っ………かな……め…」
自分を呼ぶ玄歌の声。
少女のあえかな吐息は、要の持つ総ての感覚を狂わせる。
「――…ぁ…すき……」
うわごとのように要を好きと云い続ける少女の潤んだ瞳には、要以外の人間が映っていなかった。
冷たい雨が要を現実に引き戻した。
「私を愛してくれるのは、要だけ……」
服をまとった玄歌の瞳はとても冷静で、狂気の欠片も見当たらなかった。
……これは現実。
少女の視線に絡め取られていた。
「要だけでいいの」
「……もう止そう、玄歌……」
彼女の世界には、自分しかいないのだろうか。要は怖くなった。
少女は首を振ると、嬉しそうに指を絡める。こぼれるような笑顔で言葉をつむいだ。
「これで本当に結ばれたね」
少女のまっすぐな、泉のように深く透明な視線が、純粋さが恐ろしかった。
いちど絡められた手は、二度と離れることはなかった。
嘘だと云って欲しかった。
なぜ自分たちがこんな目に遭わなくてはならなかったのか。
なぜ彼女が、こんなにも悲しみを背負わなくてはならなかったのか。
過去は変えられない。それと同じくらい、想いは変えられない。
記憶も変わらない。
二人で過ごした時間は、真実だった。
視線を交わしたのも、體を重ねたのも。
何も変わらない。
彼女の罪は、罪であって罪でない。
もっと純粋なもの。
小供のように無垢で無防備で、それ故についた瑕。
護る術を知らず、自らつけた瑕。
癒えない傷痕。
ごめん。君の事を護ってあげられなくて。
救ってあげられなくて。
君にいつまでも、優しい夢を―――
+ + + +
私と貴方の秘密の場所。
それは深い山の中に湧く、小さな泉。
鎮守様。
私は約束のとおり、手にした白い薔薇を2輪、泉に落とす。
貴方の私で2輪。
貴方の好きな薔薇の花。
月命日に、貴方の沈む泉に薔薇を落とす。
貴方と私の愛の証。
貴方は一生私のもの―――
No content . . . .