姫 事

 満月の野を行く。
 どれほど道は険しくとも。
 深く沈んだ影に身を隠すように。
 静寂に包まれる。聞こえてくるのは夜の獣の啼き声と、私が緑を踏みしめる音だけ。

 ……ザッザ……ザク…、ザクザク…ザ…ッザザ…

 森の奥に進むための、細い道に這入る。
 道はさらに険しくなくけれど。
 月の光に照らされて、儚く浮かび上がる山道。
 ためらうことなく進み続ける。

 ―――私には秘密がある。
 今までも、そしてこれからも。誰にも知られることのない、秘密。
 鎮守の泉に沈めた秘密。

 それは私だけの秘密の儀式。
 貴方と二人、決めた約束。
 月に一度、貴方の好きな花を手向けに。

 ただそのために、私は月夜を行く――。



 + + + + +


 夢を見る。
 いつも同じ夢を、繰り返し、繰り返し。
 夢は日常の延長で、現実か夢かの区別もつかない。
 目が覚めても夢と寸分違わぬ世界が待っているだけ。
 傷痕は無数に残ってる。まるで私が罪を犯したように。
 それでも私にはどうすることもできない。
 父の顔と、私を打擲する音で目が覚める。
 夢ではないけれど、夢だった。

 夢は悪夢。
 けれど目覚めても悪夢。
 嫌なことしか待っていない。
 私はそれに耐えるしか方法がない。
 助けて欲しい。
 目覚める時、私は「お兄ちゃん」と叫んでいる。
「お兄ちゃん」なんていやしないのに。
「お兄ちゃん」は私の知らない幸せなところにいて、私が助けを呼んでいることなんて、多分知らない。
 でも私には「お兄ちゃん」しかいない。
「お兄ちゃん」しか私を助けてくれる人はいない。
「お兄ちゃん」しか私を愛してくれない。
 誰か助けて。
 私を助けて。
 私を愛して。
 愛して、愛して愛して、アイシテ―――

 お願い。誰も私の世界を壊さないで。



 数学教官室の前に立つと、玄歌はそっとドアをノックした。
 中から男の声で応えがあった。
「―――入れ」
 少女は静かに息を吐く。
「――失礼します」
 カラカラと乾いた音をたてるドアを開け、中を窺う。
 狭い室内の、日の当たらない隅の席に、その男はいた。
「日誌と教室の鍵を持ってきました。先生、はんこ貰えますか」
「んー……。ちょっと待て」
 男はそう云うと、キイボードを叩く手を早めた。
 玄歌はくるりと室内を見回す。壁を覆うようにいくつも机が並べられ、棚には雑然と物が置かれている。少女は、室内に他の数学教師の私物が置かれていないことに気がついた。この時間だから、きっと荷物ごと職員室に移動しているのだろう。
 暫く続いていたカタカタと云う規則的な音が止む。出来上がった文書の印刷を始めると、待たせたなと云って男はくるりと玄歌に向き直った。
 分厚い日誌を受け取ると、気のない様子で今日の日付をチェックしている。
 背後では幽かにプリンターが音を立てていた。
「――先生、あれなんですか」
「ああ、明日の小テストのプリント。……小日向、悪いができあがった原稿を持って印刷室に行ってきて呉れないか」
「いいですけど、教室を閉めてきたので荷物が――」
「荷物は俺が預かるよ。ついでに教室の鍵も職員室に返してきてくれ」
「判りました」
 少女はそう云うとプリントと鍵を手に、数学教官室を後にした。

「ただいま戻りました」
 再び数学教官室の扉をあけた時、玄歌を迎えたのは副担任である数学教師と、ほのかな紅茶の香りだった。
「ありがとう、小日向。お礼に茶でもどう」
 それは二人だけの合図でもあった。
「―――もう仕事はいいの。要」
 少女は無愛想な白いカップを受け取ると、隣の机の椅子を引き寄せて腰を下ろした。
「外の先生は帰られたからね。俺も今日はこれでおしまい」
 男――佐伯要は、教師の顔ではなく、親しい者の表情で玄歌を見つめる。
「――…そう」
 ふうふうと息を吹きかけ、紅茶を冷ましながら口に含んだ。
「――最近、どうだ」
「何が?」
「……家。母さんが心配していた。玄歌のこと」
「…………」
 伏せた睫毛が頬に影を落とす。
「玄歌はまだ学生だし、叔父さんも……。玄歌さえよければうちで預かろうかって――」
「お父さんの話はしないで」
 普段より低い声。
「だってお前、母親いないんだし……」
「あの人の話はもっとしないで!」
 感情のない、暗い声で要の言葉をさえぎる。
「俺は玄歌が心配なんだよ――」
 要は躊躇うように続けた。
「……従兄妹として」
「――要はいいよね。伯父さんも伯母さんも優しいから。だからそんなことが云えるのよ」
 空ろな瞳。
 少女の孤独が何から来るものなのか、要には判らなかった。
「………悪かった」
 玄歌は小さく首を振る。黒くて長い髪がはらりと舞った。
 少女は気を取り直すように、カップに口をつける。
 紅茶を飲む動きに合わせて動く喉。ほうっと息をつく仕草まで、少女の動きの一つ一つが要の視線を惹きつけて離さない。
 彼女の何が、こんなに儚く見せるのだろう。
 要は少女の腕を引き寄せる。
「……玄歌」
 力を加えれば、折れてしまいそうに細い體を抱きしめる。ほんのりと少女の体温が伝わってくる。
「職員室にはまだ先生が残ってたよ」
「部活があるからな。……でも」
 玄歌はことんと首をかしげる。
「――ここにはこない……」
 抱き上げて机に座らせる。
 吐息が絡み合うほどに顔を寄せて、言葉を交わす。
 要は少女の顔に唇を落とす。
 額に、瞼に。……余ることのないようにすべて口付ける。
「……従兄妹なのに――…」
 甘い声。
 けれど、少女は抵抗しない。
「従兄妹は犯罪にならない……」
 花の香りのする髪に顔を埋める。
 こんなに人を好きになったことがあっただろうか。要は再び玄歌を抱きしめた。
 玄歌が愛しくて愛しくて仕方がない。
 少女の腕が背中に回される。まるで小供のように彼女はすり寄ってくる。
「ん……?」
「好き。――要のことが大好き」
 泉のように澄んだ、深い透明な瞳。
 ただまっすぐに要だけを見つめて、いつも少女はその言葉を口にする。
 無防備な表情。
 深い接吻け。セーラー服の裾から手を差し入れ、すべらかな皮膚に手を伸ばす。
 そして服を捲り上げた。
「ゃ……見ないで………」
 か細い声。
「―――まだ消えないな」
「いや……」
 雪のように白い肌に、毒々しくいくつも残る青い痣。
 その痣のひとつに舌を這わす。
「―――っ……!」
 吐息が漏れる。
 赤く染まった頬。
 衣擦れの音。
「……ぁ…っ――」
 熱を帯び、潤んでゆく體。
 互いの体温を感じながら、互いしか見えない世界で少女は祈っていた。
 ―――私の手を離さないで。



 でも私はこの世の儚さを知ってる。
 この世なんて、人なんて、たった一言で簡単に壊せる。
 私が貴方を壊したように。
 私は貴方を好きだった。誰よりも好きだった。
 だから誰にも盗られたくなかった。
 喩え、貴方が何を知ったとしても―――
 私には貴方しかいなかった。





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